セルフケアのようなもの

夜中にときどき、自分をぶつ。自分をぶつとき、どうしても全力でぶつことはできない。痛いのが怖くて、ちょっと力をおさえてしまう。そこをなんとか、目を瞑って、呼吸を止めて、できるだけ強くぶつ。

私はとても痩せていて、当然力もあまり強くないんだけれど、それでもぶてば思ったより頬が痛い。痛いと思いながらもう一度ぶつ。何度もぶつ。

数ヶ月に一度、そういう夜がやってくる。これは私が正気じゃないから、ではない。私は私なりにはまともだし、正気だと思う。ただ、生き方の方がたぶん間違っている。だから時折自分をぶつ。ものに当たるのは興味がない。人に当たるのも趣味じゃない。自分に当たるしかないわけだが、刃物は怖い。殴るのもなかなか痛い。ぶつくらいがちょうどいい。

つい先日も、そうだった。あのとき私は何を考えていたのかまったく覚えていない。覚えていないが、おおかたこのようなことを考えていたのだろう、とは言える。自分の人生は本当にこれで合っているのか、ということだ。

普段は、合っているふりをして、あるいはそんなことを考えずに、ただあるがままの日々を送っている。仕事にもたいして熱心ではない。燃えるような恋をしているわけでもない。なんとかごみをまとめて出す。三日放置した食器を洗う。してもしなくても良いような話。退屈しのぎのスクロール。そこにある日々。その繰り返し。その繰り返しが人生なのか。そう思わずにはいられない。

そういうときに、自分をぶつとなかなかすっきりする。猪木にぶたれた青年たちはみな晴れやかな顔をしているではないか。先日も目覚ましい効果があって、自分をぶったあとに、私の仕事の方向性は本当はこうでなければならない、自分はそれをやるしかないという緒をいくつか思い立った。自分で自分をぶちながら、仕事の懸案を考える。これは狂っているのかもしれない。でも、私だけがそうであるとはとても思えない。自分をぶつ以外でも何かしらの方法で、みな人生について考え直しているはずだし、もしそういうことがとくに必要でないなら、その方が狂っているとしか思われない。

私が知っているもうひとつの方法は、文章を書くことで、頬はこの前ぶったから、今日はそれを試している。近日中に終わらせねばならぬ、抱えている仕事が山ほどある。これは私がそういうハードな働き方をする企業に勤めているためではなく、私の怠慢のなせるわざだが、とにかくそういう状況であっても、あるいはだからこそ、文章を書くしかない。

セルフケアという言葉は、まるで自ら資本主義を支える丈夫な歯車になるための思想という感じがして、どうにも好きにはなれない。私が自分をぶつのも、文章を書くのも、本来はセルフケアとも呼べると思う。だが後者はともかく、自分の肉体を痛めつけることで、健全な労働者の姿からは遠ざかり、ゆえにそれはセルフケアではないとされるかもしれない。そして私がセルフケアという言葉が好きでないのはそこにある。だから私はそれらのことを、仕事以前、生活以前に、よく生きるための技法だと思っている。みなさんの技法も、教えてください。