2024-04-10 真夜中の仕事

明日の朝一でお送りします、と伝えた原稿を夜な夜な編集している。

昼間は車が絶えることのない幹線道路の交通量もぐっと落ちて、きっと飛ばしているであろう走行音が時折遠くに聞こえる。眠っている同居人のために部屋もほとんど真っ暗で、コンピュータのディスプレイは照度を最低にしても無闇に明るい。

朝が来るまでに終えられるのか。明日の仕事は大丈夫なのか。ひりひりした焦燥のために本数が多くなる煙草の煙は、ディスプレイに照らされていつもより青っぽく見える。そんな時間。そんな時間に仕事をするのが嫌いではない。

タイムラインをスクロールしてもほとんど新しい投稿は増えず、SlackのメンションもLINEの通知も来ない。深夜は携帯の通知を切っているのでもとより来るはずもない。こんな文章を書いているのだから説得力に欠けるけれど、それでも明るいうちよりずっと仕事が捗るのは確かだ。

いつまでこんなやり方ができるのだろう。抜き差しならない状態に追い込まれないと手をつけられない怠惰さ。丑三つ時を過ぎるとともに去っていったかのような睡魔。眠くないのに疲れてはいる体をカフェインとニコチンでごまかす。こんなことをいつまでも続けていられるはずがない。明日、また1つ歳をとる。いつになれば私は私とうまく付き合う方法を見つけられるのだろうか。

2024-03-25

昼間に惰眠を貪りすぎてしまったので仕事をせねばならないが、自宅では気乗りしないので近所のネットカフェに来ている。夜だとナイトパックが適用されて、数時間滞在しても千数百円で済むことが多い。とはいえお金を支払っていることには変わりなく、わざわざ移動して、わざわざお金を払って、というコスト意識から仕事に集中できることを期待しての行動である。

学生時代もよく同じことをしていた。ウェブ制作などのフリーランスまがいのことをして小遣いを稼ぐことがしばしばあったのだが、そのときは実家住まいで尚更集中しづらく、電車で十分程度の駅まで夜な夜な移動して、そこのネットカフェで徹夜で作業をして、朝方帰るようなことがよくあった。徹夜といっても、無理をしていたのではなくただ夕方に目覚めるような日が多かっただけである。

当時、ネットカフェは分煙の店がほとんどだったが、今私がいる店は全席禁煙であり、その代わり広いバルコニーが喫煙所になっている。バルコニーに出ると、何をして食べているのかよくわからない人たちがドリンクバーの紙コップやスマートフォンを片手に煙草を吸っている。この雰囲気にも懐かしさを覚える。

学生時代は普通のアルバイトもしていたのだが、それでは賄いきれぬ突発的な出費のために単発のアルバイトもたまにしていた。私は体力がなく、一方で時間を浪費するのは得意だったから、一番よくしていたのは試験監督だが、その口が見つからないときには、東京湾の物流倉庫に行ってピッキングをするとか、大学の新入生に配布するパソコンを数百台セットアップするとか、他にもいろいろなバイトをした。

そのなかで一度、パチスロの動作検証のアルバイトをしたことがある。指定された手順でパチスロを操作し、想定通りの動作をするか確かめるものである。なぜか夜勤の仕事で、上野駅近傍の雑居ビルに23時くらいに集められ、朝6時くらいまでひたすらパチスロを打ち続ける。

普通、そうした業務はパチスロが好きな人が応募するのだろうが、私はあいにくパチンコしかしたことがなかったので、まず「目押し」を習得するように指示された。ボタンが3つあるので、それを順に押してチェリーとか数字の7とかそういった役を3つ揃えるための技術である。それができないと動作検証もできないので、ひたすらボタンを押し続ける。

そのとき台がどういう設定になっていたかは知る由もないのだが、おそらく検証のために揃えやすい設定であり、1時間ほどである程度目押しができるようになり、その後は紙に記載された手順通りに検証を進めた。

だいぶ話が長くなった。その雑居ビルにも喫煙所があり、同じアルバイトをしている人たちがいたのだが、その喫煙所の雰囲気が、このネットカフェの喫煙所と似ているのである。薄暗いが広く、何人か方々に散らばり、誰も他人と話したりせず、別に憂鬱そうでもないが、希望も特にないような表情の人々が、ひたすら煙を吐いている。東京は広いと思った。

そのような日々が過ぎ去って、今日のネットカフェに至る。何かは変わり、何かは変わらない。今では聴かなくなったバンド。私はどこへ向かっているのだろうか。

2024-03-20 (2)

春分が国全体で祝われるべき日であるというのは少し不思議に感じられる。しかし理由はともあれ、私の勤めでは祝日は休みであり、休みは良いことである。週末に結婚式への参列を控えているので髪を切ることとした。

前回美容室に行ったのは半年近くも前のことで、それも結婚式が近づいたから髪を切ったのだった。そこから伸ばし続けた髪はセットするのも一苦労であり、そうするとセットしなくなるので余計に収まりが悪くなる。

中央線と山手線を乗り継いで原宿で降りた。予約サービスで安くて腕も悪くなさそうだったのでそこにした。祝儀も払わねばならないので金がなく、安いに越したことはない。前回切ってもらった人で良かったのだがその人はニュアンスパーマしか受け付けていないというのでやめた。というかニュアンスパーマって何? それこそニュアンスでしか判っていない。

美容室では以前は何も話さずに本を開いて読み続けていたのだが、それも感じが悪いような気がして最近は少しは話すことを試みている。本を開いているとまったく話しかけてこないことが多いのだが、スマホを見ている場合はその限りではない。案の定、今日はお休みですか? と尋ねられ、ひとしきり仕事の話をした。

仕事の話をしてしまうと、それ以上は特に話すことがなくなり、美容師は何ヶ月分も伸びた髪を黙々とカットをし続けた。私も黙々と他人のブログを読んだ。しかしカーラーを巻く頃になって、福島県出身というその美容師が専門学校に入る際に上京して住んだ街が私の実家がある街であることが偶々判明し、そこからはひたすら武蔵野台がどうとか調布に映画館ができて云々とか話していた。

天気の不安定な日で、私が家を出たときは雨は止んでいて、髪を切られているときは晴れてもいたのだが、パーマがかかった頃には土砂降りで風も強く吹いていた。それを見て陰鬱になる。セットしてもらって美容室を出るときも相変わらずで、青山ブックセンターでも歩いて行こうかと思っていたが、早々にそんなことは諦めて近所の喫茶店に避難した。暴風雨と呼ぶほかない天気だった。

クリームソーダを頼んだあとに同居人から電話が来て、玄関の戸が閉まらなくなってしまったという。我が家の玄関には欠陥があり、強風に煽られて勢いよくドアが開くとそのまま廊下の手すりに挟まってしまって固定され、びくともしなくなるのである。前日にも不動産屋に助けを求めたらバールを持ってやって来て、てこの原理でドアを動かしていた。しかし今日は水曜で不動産屋は休みであろう。彼女も今日美容室の予約がありもう出ねばならないというので、仕方なくドアを開け放したまま外出することに合意した。

電話を終えて戻るとじきにクリームソーダが置かれた。メロンソーダが甘すぎてそこまで好みではなかったが、ドアが開いているのが気になって味もよく判らない。気休めに、置かれている漫画を手に取り1巻読み終わると店を後にした。幸いもう雨は止んで晴れていた。

行きは中央線で来たが帰りは座りたかったので代々木で乗り換えて総武線に乗る。新宿で座れるだろうと見越してのこと。案の定座れた。荻窪で降りるときに、中年の女性が私が降りた電車に乗り込もうとして転ぶのを見て思わず駆け寄ると、女性はすぐに立ち上がったが左足の靴がなかった。驚いて「靴は? 靴どうしたの?」と子供に問うように尋ねてしまう。「こっちの靴だけ(線路に)落ちちゃって」と女性は答えた。私が何をできるでもなく立ち尽くしていると「車掌が参りますのでそのままお待ちください」と放送が入り、女性が「もう大丈夫ですから、ありがとうございます」と言うのを聞いて立ち去った。

駅前の西友でバールを探すが見当たらず、とりあえず縄と滑り止めのついた手袋を買った。それから夕食を私が作ることになっていたのでカレーのルーと具材を買った。そうして家に戻ると、やはりドアはまだ開け放しである。具材を冷蔵庫に入れてすぐ縄を持って手袋をはめドアに立ち向かう。縄をドアノブにくくりつけようとするが風が強すぎて寒くてうまくいかない。何度か試したがだめで、縄を諦め手袋でドアノブを握って力任せに引っ張ったらドアは閉まった。やれやれと一服する。昨日閉まらなかったのは素手で閉めようとしたからなのか。あるいは今日の方が手すりへの挟まり具合が弱かったためなのか。

最近平民金子氏の『ごろごろ、神戸』を読んでいて「家のカレー」が登場したのを見て食べたくなり、作ることにした。普段食事は彼女が作るか外食するかで私が作ることはないのだが。たまにする分には料理は無心になれて良いと思う。適当に手を動かすと美味しいものが食べられるという仕組みなわけだから、趣味としてはこれ以上のものもなかなかない気がする。とはいえ私は一人暮らしをするまで包丁すらほとんど握ったことがなく、二年弱の一人暮らしの間も30回くらいしか料理をしていないはずなので手際は非常に悪い。悪いながらもカレーくらいならなんとか作れる。カレーのとろみが出てくるのを待っている頃に彼女が帰宅し、一緒に食べた。見た目は悪いが、まさしく家のカレーの味だった。

第18回 ライスカレーの夢 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

2024-03-20

暦の上では春分であり世間では桜もそろそろ咲き始めようという感じらしいが、春めいた陽気とはまだまだ言いがたい。私が満足する程度の温暖さというのは実際5月くらいまでやってこない。

最近は仕事もまったく捗らず(私がまったくと言ったら文字通りまったくという意味である)、家では何をするでもなく寝てばかりいて同居人の顰蹙を買っている。今日などは街を歩きながら会社を辞めることばかり考えており、終業後に会った友人からの麻雀の誘いにも魅力を感じられず、売るほどあった性欲も生じにくく、ただでさえ少食だったところ先週インフルエンザに罹患して以来本当に食べられなくなり、なるほどこれは多分ちょっとしたうつ状態なのだろうと思い至った。

思い返せば感染症が流行し自宅に引きこもらざるを得なくなったときや会社に入ったときもしばらくするとこのような無気力に陥っていた。今回は転居を伴う同棲の開始と業務上の役割の変化が原因である気がする。時間が解決してくれる種類のものとは思うが、その間もどうにかやり過ごさねばならない。このブログも、突発的な感情の昂ぶりによって投稿した前回を除けば数ヶ月ぶりの投稿であり、文章が書けるようになったことは若干の回復の兆しと考えてもよいと思う。

会社を辞めたとして何がしたいか考えていたのだが、職場以外で仕事のことを考えなくてよい職業が望ましい。いまの仕事は考えようと思えば四六時中それについて考えることができ、またそうせざるを得ないような感覚もある。これは仕事が楽しいときは別によいのだが、いまのように消耗しているときはなかなか厳しいものがある。沖仲仕のような単純な肉体労働に憧れる。海の見える港町に独居し、肉体労働で日銭を稼ぎ、それを煙草やコーヒーに使い、図書館や古書店で入手した本を読みながら、心地よい疲労感を覚えて寝る。そのような生活に憧れるが、憧れるだけでなく実際にそれをすることもできる(私の乏しい体力の問題を考えなければ)。

何はともあれ、もう少し暖かくなってくれないと困る。それに尽きる。新しい土地での新しい生活——実際には、比較的見知った土地での新しい生活——に伴って思っていることはたくさんあるはずなのだが、それを書き留めておくだけの気力と時間と表現がいまの私にはない。

無印良品のランドセルの思い出

ワークマンが8,800円のランドセルを売り出すというニュースが「はてなブックマーク」で話題になっていた1。そのニュースに対する反応を見ていて思い出したのだが、私も無印良品の安いランドセルを使っていた。それについて書く。


今ではもう売っていないようだが、かつて無印良品もランドセルを取り扱っていた。一般にランドセルは数万円するところ、無印のランドセルは当時6,150円だった。私は2005年に入学したのだが、ちょうどその年の新入生に合わせて発売された製品のプレスリリースがインターネットに残っていた。

出典:良品計画プレスリリース

6歳の私はどう思っていたか。ませた子供だったので、これがランドセルの相場に比してかなり安いらしいということは理解していた。でも普通のランドセルよりむしろかっこいいなと思っていて、わりと気に入っていたように思う。

ところで、なぜ親は数あるランドセルのなかでこれを選んだのだろうか。私は母子家庭の生まれで、普段私の面倒は祖母が見ていて、母が水商売で稼いできたお金で三人で暮らしていた。余裕があったかというと全くそんなことはなかっただろうが、かといって子供の入学に際して数万円の鞄を買うことが不可能なほど困窮しているわけでも、たぶんなかったと思う(数万円も出すなんて馬鹿らしい、くらいには思っていたかもしれないが)。

だから母は純粋に安いしおしゃれだしこれで全然いいじゃん、という発想だったのだろう。幸い祖母も、私自身もそう思っていたので問題なかった。


小学校に実際入ってみてどうだったか。東京の郊外にある国分寺という街の小学校に入学したのだが、おそらく学年に百人くらい児童がいただろうか、私ともう一人だけが無印のランドセルを使っていたことを覚えている。

他の子のランドセルとは違う、という認識はもちろんあった。無印のランドセルを使っていて珍しいということで、もう一人の子と仲良くなったくらいだから。でもその違いによって何かしらの不利益があったかというと、とくになかった。そもそもランドセルが違うことで何か(悪意によるものにせよ、無邪気なものにせよ)言われることすらなかった。

おそらく、ちょうどその頃ランドセルは変化の過渡期にあって、それまで黒と赤しか選択肢がなかったところ、水色や茶色のランドセルを使う子がぼちぼち見られるようになった時期でもあった2。それもあって、ランドセルが他人と異なることでどうこう言うような発想はあまり当時の子供たちにはなかったんじゃないかという気がする。

その後母が結婚することになり、3年生のときに近隣の市に転校した。そちらではほかに無印のランドセルを使っている子はいなかったが、そこでもやはり、ランドセルが原因で何かを言われるようなことはなかった。その頃にはそもそもランドセルが他人と違うこともあまり意識していなかったと思う。何年も毎日使っていればそれが自然に感じられるし、そもそもランドセルが子供にとって特別な感じがするのは小学校に上がるときだけではないだろうか。そのうち帰り道に蹴っ飛ばして遊んだりするようになる。

私はそんなに乱暴な子供でもなかったので、蹴っ飛ばした覚えはあまりないが、特段注意を払って使っていたわけでもない6,150円のランドセルは、壊れることもなく6年間の使命を無事に果たした。子供が6年間使って壊れない6,000円の鞄というのはなかなか大したものだと思う。


私が「はてなブックマーク」で寄せられた反応を見ていて驚いたのは、たとえば以下のような手厳しい意見が注目コメントとして挙げられていたことだ。

ワークマン初のランドセルは税込8800円、「低価格・高機能・軽い」バランス重視の開発の裏側

ほう、いいじゃないの(実物見る)。…このクオリティは浮くよ。子供から要らぬ怨み買いたくなきゃ1年生は辞めた方がいいクオリティ

2024/03/06 00:35
b.hatena.ne.jp

ワークマン初のランドセルは税込8800円、「低価格・高機能・軽い」バランス重視の開発の裏側

ネット民は褒めるだろうけど、さすがにこれはかわいそう。自分の子に買うかというとありえない。ランドセルはリーズナブルであるべきという主張は御立派だが子供に業を背負わせちゃいかん。

2024/03/06 00:17
b.hatena.ne.jp

なるほど、もちろんこのような考え方は理解できる。理解できるが、こうした意見が通用することを私は受け入れたくない。

まず、どのようなランドセルを使うか(そもそも小学校の通学鞄としてランドセルを使うか)は、親と子供(場合によっては祖父母などの出資者)が決めることで、他人が判断することではない。「要らぬ怨み」とか「かわいそう」とか「業を背負わせ」とか、余計なお世話である。ランドセルひとつ取ってもこの調子なら、多様性の実現なんてあまりにも遠すぎる理想ではないか。

まあ、ワークマンのものより私が使っていたもののほうが今見ても洗練されている気がするので、デザインには改善の余地があるかもしれない(それも人それぞれの意見だと思うが)。丈夫さについては今の段階ではわからない。なのでクオリティについての指摘は措くとしても、それにしたってあまりに強い言葉ではないだろうか。

こうしたコメントを書く人は、たとえば自身に小学生の子供がいたとして、我が子と仲の良い子がワークマンのランドセルを使っていたら、「親を怨んでいるだろうな」とか「かわいそうだな」とか「業を背負わせられているな」と思うのだろうか。子供だって気に入っているかもしれないのに? それとも「ワークマンのランドセルを使っている子とは仲良くしてはいけません」とか言うのだろうか。私はランドセルくらいで親を怨んだりしないと思っているが、もしそのようなことがあるとしたら、そういう見方をする人がいるからではないだろうか。他人に対してこのような見方をして平気でいる親を持つことに比べれば、ワークマンのランドセルを買い与えられることなんてなんでもないと私は思う。

それと同時に、当時私が仲良くしていた子たちの親御さんが、良識的な人々であったことは恵まれていたのだなと思う。私は母子家庭だったしかなり早熟だったし、後になってわかったことだがADHDでもあり、ランドセル以外でもあまり一般的ではない境遇にあったが、除け者にせず我が子の大事な友達として遇してくれた。私が転校するときには、仲良くしていたグループの子供たちを皆招いて、私たちが最後の時間を楽しめるように、手料理の夕食を囲んで一晩泊めさせてくれた家族もあった。

特に友達を除けば、陰では「保護者会におばあちゃんが来る家」とか「ランドセルが安物」とか言っている親もあったのかもしれないが、彼らもまた少なくとも子供にそのような価値観を押しつけることはなかったのであろう。もし親がそのような発言を子供の前でしていたら、子供はきっと私にも同じことを言うだろうが、その覚えはないのだから。


子供にワークマンの(あるいは無印良品の)ランドセルを買い与えることは、親のエゴだろうか。一面ではそうだろう。しかし親のエゴがあること自体は問題ではないと思う。誰だってエゴくらいある。子供自身が納得しているかどうかではないだろうか。あるいは子供がそれを嫌がったときに、どう対処するかが肝心なのではないだろうか。子供ながらに(たとえば経済的事情を慮って)親に忖度することもあるだろうが、それでも親の態度が子供にとって概ね信頼の置けるものであるなら、別にどんなランドセルだって親を怨んだりはしない。

親のエゴということで言うと、私の本名は変わっているし、幼稚園の頃は金髪に染められていたし、物心ついた頃には父親はいなくて、やがて他の男と結婚するし、まあ親のエゴでいっぱいの幼少期だったと言えなくもない。でも私は母や祖母を怨んだりしていない。彼女たちは愛情を以て私を育ててくれたし、名前も気に入っているし、金髪も当時は結構モテてよかったなと思うし、いまの父親も完璧ではないにせよ、悪い人ではない。そもそも私が嫌だと言ったら(名前はともかく)そんなことはしない人たちだという感覚がある。その感覚が一番大事なことだと思う。

私はいま25歳で、人の親になった経験はないので(私にランドセルを買い与えた母は当時、今の私より若かったことを思うと驚かされる)、実際に人の親になってみれば、先に挙げたような意見ももう少し理解できるようになるかもしれないし、私が言っていることは理想論に過ぎないのかもしれない。

しかし、あまりにも強い言葉で断罪するような意見が目についたので、別に安物のランドセルを買い与えられたからといってそれが不幸だということではない(と当の子供自身が思っている)例もあることを残しておきたく、これを書いた次第である。私の経験を以て一般化するつもりはないが、ランドセルにまつわる状況がもう少し自由のあるものになれば良いとは思う。


  1. https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.fashionsnap.com/article/2024-03-05/workman-school-bag/
  2. いま簡単に調べたところ、イオンが業界で初めて24色のランドセルを取り扱い始めたのが2001年。2003年には機能性を打ち出した「天使のはね」が発売されている。

2023-11-18

一月に一度くらいは文章を書いておいても良いと思う。前回ここに投稿してから一ヶ月は経っている。そういうわけでこれを書いている。

今週は珍しく仕事が比較的立て込んでいた。といってもそれでようやく人並みと言えるかすら怪しいが。仕事が立て込んでくると、それをやらねばならないということに思考が支配されて、むしろいつもより頭が回らなくなる感じがある。今回は特にやったことのない種類の仕事だったので、まず何から手をつければ良いのかな、などと思っているうちに二日ばかりが過ぎた。そのうちにスケジュールが逼迫してきてようやく手をつけられる。〆切なしでは何もできない。

また週のうち三日ばかりは、好きな人が家にいた。一ヶ月のうちに恋人ができたので。そういうこともあります。いままで恋人にこうした文章の存在を積極的に開示することはなかったのだが、今回はその関係になる前にこのブログの存在を伝えてしまったので少しばかり勝手が違って難しい。私は恋人が読む文章には恋人のことは書かないほうが良いと思っているのだが、まったく触れないのはそれはそれで変という感じもあり、言い訳がましく書いておきますが、たとえ私の文章にあなたが登場しなくてもあなたのことを軽んじているゆえだとは思わないでください。

ところで人とそういう関係になるのは前回書いていることと一貫していないじゃないかと思うかもしれない。私も部分的には同意するが、人間は一貫するために生きているわけではない。一貫しているというのは変化がないということではないか。

もう少し書いておきたいことがあった気がするのだが、どうもないらしい。何かは起きて、何かは思っているのだが、それは書き留められないうちに忘れられる。そろそろまた日記を書いても良い頃合いなのかもしれない。外は寒いので。

ただそうである日々

最近はただそうである日々を送っている。寒くなったなと思って上着を着る。白い目で見られない程度に仕事。暇だなと思えばTwitterを開くか、娯楽としての本を読むか、散歩でもするか、お茶するか。たわむれにTinderで会った人とそういうことになる。人を家に上げるのでなんとか掃除をする。着る服がないので洗濯をする。給料日にいろいろと支払い、残ったお金を日割りで使う。ただそうである日々が積み重なり、ただそうである人生になる。何かに熱意を持つでもなく、特段の野心もない。享楽的といえばそうかもしれないが、それらもまたつましい楽しみにすぎない。

この生活に不満らしい不満はない。恵まれていると思う。まったく興味がないわけでもなく耐えがたいほどつらくはない仕事をして、贅沢はできないにしろ生活が苦しいほどではない給料をもらい、自分だけのためにあるアパートの部屋を借りて住んでいる。それで十分じゃないか。発達障害の私には尚更貴重なことだ。

でもなんだか張り合いがない。この生活を繰り返すだけで、五年や十年は簡単に経ってしまうだろうという気がする。それは安穏で素晴らしいことなんだろうか。そうとは言い切れない自分がいる。何も先行きの見えなかった時代には、たしかに今のような暮らしを求めていたはずなのに。でも、それにしたって、心がときめく何かはどこにあるのか? 内に秘めた野心はどこへ行ったのか?

だから人は結婚して、子供を産み、先の見える(気がする)自分だけの人生を生きるのをやめるのかもしれない。しかしその責任をまっとうできる気もしない。しなかったから、長く交際していた人と結婚せずに別れたのだし。

とはいえどうせ、私のような人間には、残念ながらいずれとんでもない波瀾が待ち受けている、とも思う。そうでなくても、不況や天災や戦争や病によってこのような生活はいつでも容易に破壊されうるのだから、ただそうである日々を、束の間の平穏として味わっておくべきなのかもしれない。きっとそうなんだろう。