こちらで書いたことはなかったと思うが、少し前にひょんなことから転職を考えはじめて、ちょうど良さそうなところが募集していたので受けてみたら通った。選考過程を進んでいるあいだ逡巡していたが、心機一転と思い行くことにした。
私は気が小さいところがあるので、内定してからしばらく上司に言うタイミングを窺っていたが、そろそろのっぴきならない状況なので昨日上司に伝えた。本当ならお互いに出社する機会にと思って昨日を選んだのだが、上司のお子さんが発熱したらしくリモートに切り替えていた。私は出社していたので結局会議室を予約して一人で入ってオンラインで話すことにした。
上司に約束した時間まで少し間があったので、喫煙所に行ったらダウナーな社員も煙草を吸いに来た。この人は、私が入社してすぐに「何かある」と思ってお茶を誘ったことのある人である。喫煙所で私を見るや、疲れ切った声で「最近どうですか? 僕は何もやる気しないです」と、素晴らしい挨拶をしてくれたので、本当は順番が違うのだがこの人ならいいかと思って退職の話をしたら笑顔になっていた。「僕は地元に帰ってなんもしたくないです。マイルドヤンキー的生活を送りてえ」と言っていた。「10代20代の頃に、東京に来れば何かあるかも、と思っていたような気持ちが消え失せた」らしい。
それで緊張が幾分ほぐれた。上司はできた人なので、ひとしきり残念がってくれたあと、いろいろと励ましの言葉や(次も同業の会社なので)助言をいただき、肩の荷が下りたなあと思っていると本当に肩が軽くなったので驚いた。とても仕事のしやすい人だったのでこの人と働けなくなるのは私としても残念である。
さて次の職場は京都にある。横浜に生まれて一年後に東京に引っ越してきたので、ちょうど四半世紀住んだ街を離れることになる。ついこの間同棲のために引っ越したばかりで、無計画な人生だと自分でも思うが、これまでもずっと軽いフットワークだけでなんとかしてきたので仕方がない。
当地にいるうちに、東北方面などまだあまり行けていない土地に赴いておくべきなのかもしれないが、あいにく金はない。18きっぷでも使うか。東京でも知らない街もいくらでもあるのだが、こう暑いとあまり散策する気になれない。結局大したことはしないまま東京を離れることになるのかもしれない。近頃は中央線の車窓を眺めるだけでも少し感慨深い。
とはいえ、東京にはもう結構飽きている。嫌いではないが、うきうきするような気分がもうない。一方で、東京を離れるとしても都市の文化的な側面を十分に享受できるような広がりのある土地には住みたい。そんな条件を満たしうる都市は、京阪神くらいしかなさそうに思える。仙台や福岡ですら、住みやすそうとは思うけれどあまり楽しくはないという印象を抱いている。文化はもちろんあるのだけれど、少し広がりに欠けるというか、とにかく集積の著しい東京や、三都にそれぞれ個性がある京阪神とは比べられない。名古屋は、ちまたで言われるよりは面白い街だと思うが……。そういう意味では、京都に住めることはとても楽しみ。おそらく向こうもいずれは飽きが来るのだと思うけど。
私の関西に対する憧憬は、(東京から京都の大学へ進学する人の大方がそうであるように)ティーンエイジャーの頃に読んだ森見登美彦や万城目学の小説を種として、主に学力の面で課題があり順当に東京の大学に進んだわけだが、学生時代も頻繁に関西を訪ねることでその憧憬はふくらみ、最終的には自分と同じように生まれ育った東京を離れ、関西で大作をものした谷崎潤一郎や九鬼周造によって完成された感がある。
しかし、今までは関西が、現実と向き合わなくて済むような「ここではないどこか」だったのが、そこで生活するようになると東京を恋しく思うようになるのかもしれない。いま関西を魅力的に思うのは、喫煙所で出会った社員が東京に対して抱いていた憧憬と少しは似ているだろう。それでも、人生で一度くらいは生まれ育った場所を離れるべきだと思う。そういうわけで、さらば東京、命あらばまた他日。では、失敬。