無印良品のランドセルの思い出

ワークマンが8,800円のランドセルを売り出すというニュースが「はてなブックマーク」で話題になっていた1。そのニュースに対する反応を見ていて思い出したのだが、私も無印良品の安いランドセルを使っていた。それについて書く。


今ではもう売っていないようだが、かつて無印良品もランドセルを取り扱っていた。一般にランドセルは数万円するところ、無印のランドセルは当時6,150円だった。私は2005年に入学したのだが、ちょうどその年の新入生に合わせて発売された製品のプレスリリースがインターネットに残っていた。

出典:良品計画プレスリリース

6歳の私はどう思っていたか。ませた子供だったので、これがランドセルの相場に比してかなり安いらしいということは理解していた。でも普通のランドセルよりむしろかっこいいなと思っていて、わりと気に入っていたように思う。

ところで、なぜ親は数あるランドセルのなかでこれを選んだのだろうか。私は母子家庭の生まれで、普段私の面倒は祖母が見ていて、母が水商売で稼いできたお金で三人で暮らしていた。余裕があったかというと全くそんなことはなかっただろうが、かといって子供の入学に際して数万円の鞄を買うことが不可能なほど困窮しているわけでも、たぶんなかったと思う(数万円も出すなんて馬鹿らしい、くらいには思っていたかもしれないが)。

だから母は純粋に安いしおしゃれだしこれで全然いいじゃん、という発想だったのだろう。幸い祖母も、私自身もそう思っていたので問題なかった。


小学校に実際入ってみてどうだったか。東京の郊外にある国分寺という街の小学校に入学したのだが、おそらく学年に百人くらい児童がいただろうか、私ともう一人だけが無印のランドセルを使っていたことを覚えている。

他の子のランドセルとは違う、という認識はもちろんあった。無印のランドセルを使っていて珍しいということで、もう一人の子と仲良くなったくらいだから。でもその違いによって何かしらの不利益があったかというと、とくになかった。そもそもランドセルが違うことで何か(悪意によるものにせよ、無邪気なものにせよ)言われることすらなかった。

おそらく、ちょうどその頃ランドセルは変化の過渡期にあって、それまで黒と赤しか選択肢がなかったところ、水色や茶色のランドセルを使う子がぼちぼち見られるようになった時期でもあった2。それもあって、ランドセルが他人と異なることでどうこう言うような発想はあまり当時の子供たちにはなかったんじゃないかという気がする。

その後母が結婚することになり、3年生のときに近隣の市に転校した。そちらではほかに無印のランドセルを使っている子はいなかったが、そこでもやはり、ランドセルが原因で何かを言われるようなことはなかった。その頃にはそもそもランドセルが他人と違うこともあまり意識していなかったと思う。何年も毎日使っていればそれが自然に感じられるし、そもそもランドセルが子供にとって特別な感じがするのは小学校に上がるときだけではないだろうか。そのうち帰り道に蹴っ飛ばして遊んだりするようになる。

私はそんなに乱暴な子供でもなかったので、蹴っ飛ばした覚えはあまりないが、特段注意を払って使っていたわけでもない6,150円のランドセルは、壊れることもなく6年間の使命を無事に果たした。子供が6年間使って壊れない6,000円の鞄というのはなかなか大したものだと思う。


私が「はてなブックマーク」で寄せられた反応を見ていて驚いたのは、たとえば以下のような手厳しい意見が注目コメントとして挙げられていたことだ。

ワークマン初のランドセルは税込8800円、「低価格・高機能・軽い」バランス重視の開発の裏側

ほう、いいじゃないの(実物見る)。…このクオリティは浮くよ。子供から要らぬ怨み買いたくなきゃ1年生は辞めた方がいいクオリティ

2024/03/06 00:35
b.hatena.ne.jp

ワークマン初のランドセルは税込8800円、「低価格・高機能・軽い」バランス重視の開発の裏側

ネット民は褒めるだろうけど、さすがにこれはかわいそう。自分の子に買うかというとありえない。ランドセルはリーズナブルであるべきという主張は御立派だが子供に業を背負わせちゃいかん。

2024/03/06 00:17
b.hatena.ne.jp

なるほど、もちろんこのような考え方は理解できる。理解できるが、こうした意見が通用することを私は受け入れたくない。

まず、どのようなランドセルを使うか(そもそも小学校の通学鞄としてランドセルを使うか)は、親と子供(場合によっては祖父母などの出資者)が決めることで、他人が判断することではない。「要らぬ怨み」とか「かわいそう」とか「業を背負わせ」とか、余計なお世話である。ランドセルひとつ取ってもこの調子なら、多様性の実現なんてあまりにも遠すぎる理想ではないか。

まあ、ワークマンのものより私が使っていたもののほうが今見ても洗練されている気がするので、デザインには改善の余地があるかもしれない(それも人それぞれの意見だと思うが)。丈夫さについては今の段階ではわからない。なのでクオリティについての指摘は措くとしても、それにしたってあまりに強い言葉ではないだろうか。

こうしたコメントを書く人は、たとえば自身に小学生の子供がいたとして、我が子と仲の良い子がワークマンのランドセルを使っていたら、「親を怨んでいるだろうな」とか「かわいそうだな」とか「業を背負わせられているな」と思うのだろうか。子供だって気に入っているかもしれないのに? それとも「ワークマンのランドセルを使っている子とは仲良くしてはいけません」とか言うのだろうか。私はランドセルくらいで親を怨んだりしないと思っているが、もしそのようなことがあるとしたら、そういう見方をする人がいるからではないだろうか。他人に対してこのような見方をして平気でいる親を持つことに比べれば、ワークマンのランドセルを買い与えられることなんてなんでもないと私は思う。

それと同時に、当時私が仲良くしていた子たちの親御さんが、良識的な人々であったことは恵まれていたのだなと思う。私は母子家庭だったしかなり早熟だったし、後になってわかったことだがADHDでもあり、ランドセル以外でもあまり一般的ではない境遇にあったが、除け者にせず我が子の大事な友達として遇してくれた。私が転校するときには、仲良くしていたグループの子供たちを皆招いて、私たちが最後の時間を楽しめるように、手料理の夕食を囲んで一晩泊めさせてくれた家族もあった。

特に友達を除けば、陰では「保護者会におばあちゃんが来る家」とか「ランドセルが安物」とか言っている親もあったのかもしれないが、彼らもまた少なくとも子供にそのような価値観を押しつけることはなかったのであろう。もし親がそのような発言を子供の前でしていたら、子供はきっと私にも同じことを言うだろうが、その覚えはないのだから。


子供にワークマンの(あるいは無印良品の)ランドセルを買い与えることは、親のエゴだろうか。一面ではそうだろう。しかし親のエゴがあること自体は問題ではないと思う。誰だってエゴくらいある。子供自身が納得しているかどうかではないだろうか。あるいは子供がそれを嫌がったときに、どう対処するかが肝心なのではないだろうか。子供ながらに(たとえば経済的事情を慮って)親に忖度することもあるだろうが、それでも親の態度が子供にとって概ね信頼の置けるものであるなら、別にどんなランドセルだって親を怨んだりはしない。

親のエゴということで言うと、私の本名は変わっているし、幼稚園の頃は金髪に染められていたし、物心ついた頃には父親はいなくて、やがて他の男と結婚するし、まあ親のエゴでいっぱいの幼少期だったと言えなくもない。でも私は母や祖母を怨んだりしていない。彼女たちは愛情を以て私を育ててくれたし、名前も気に入っているし、金髪も当時は結構モテてよかったなと思うし、いまの父親も完璧ではないにせよ、悪い人ではない。そもそも私が嫌だと言ったら(名前はともかく)そんなことはしない人たちだという感覚がある。その感覚が一番大事なことだと思う。

私はいま25歳で、人の親になった経験はないので(私にランドセルを買い与えた母は当時、今の私より若かったことを思うと驚かされる)、実際に人の親になってみれば、先に挙げたような意見ももう少し理解できるようになるかもしれないし、私が言っていることは理想論に過ぎないのかもしれない。

しかし、あまりにも強い言葉で断罪するような意見が目についたので、別に安物のランドセルを買い与えられたからといってそれが不幸だということではない(と当の子供自身が思っている)例もあることを残しておきたく、これを書いた次第である。私の経験を以て一般化するつもりはないが、ランドセルにまつわる状況がもう少し自由のあるものになれば良いとは思う。


  1. https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.fashionsnap.com/article/2024-03-05/workman-school-bag/
  2. いま簡単に調べたところ、イオンが業界で初めて24色のランドセルを取り扱い始めたのが2001年。2003年には機能性を打ち出した「天使のはね」が発売されている。