花見をした日、眠る前に考えること:韻文、本、勉強

今日は花見に行って、行く前は前回の記事に書いたような眠気に襲われていたのだが、とりあえず15分ほど横になりほんの少しだけ回復した気力をもってして代々木公園へと自転車を漕いだ。多くの人と久闊を叙することができよかった。晴れ間もあったものの夕方にはもう薄寒く、寒い寒いと凍えるような感じではなくじわじわと体力を奪われるような感じで、桜ももうかなり散っていたし葉桜にもなりつつあったが、桜についてはもう散々今年は見たのでよい。花見で花を見るものはなし。私も計画に一枚噛んでいたので、足を運んでくれた人には感謝。朝早くから場所取りをしてくれた友人には多謝。

春塵や旧友の目が霞みゆく

そのあと、飲み屋で二次会となりそちらにも流れで参加した。屋根や壁があって外気に直接さらされることなく暖かい空間で、ようやく話を落ち着いてできるような感じがした。くたびれつつ、自転車で数キロの道を帰った。ところで私は警察の横暴さを以前(私としては私にさしたる非はないと考えている状況で)経験したことがある。自転車の飲酒運転は、車のそれに比べるとだいぶ世間的に許容されている感があるものの、幸い酒をそんなに好むわけでもないので、一滴も酒は飲まないでおいた。下戸なのだが、量を過ごさなければ飲むのは別に楽しい。ただ飲まなくても、別に楽しいと思っている。コーラが一番美味しい。

さて以前も書いたことがあるが、私は疲れすぎると眠れないことがままある。今も完全にそれだ。丑三つ時もとっくに終わったというのに、そして数時間前にきちんと睡眠薬も服用したのに眠りの緒がつかめない。そういうとき、さまざまな方法を試す。さっきまで般若心経をループ再生で流していたのだが、眠れなかった(効くときもある)。

なぜ眠れないのかというと、体は疲れているのに頭は冴えていていろいろなことを考えてしまうからだ。今日は布団に入ってから考えた雑多のことを書く。ぼんやりとした考え事なので、特に論理立っているわけでもないし、正当とも思っていない。

たとえば俳句のこと。短歌はもともと関心があり、好きなのだが、最近は俳句の簡潔さに惹かれつつある自分がいる。どこかのブックオフで入手した歳時記をめくり、俳句の入門書を何冊か図書館で借りた。先ほどの句は自作で、そこまでよくできたとは思っていないし、まだ推敲の余地が存分に残されている——そしてそんな恐ろしいことはない。諦めたところがその句の到達点ではないか?——が、とりあえず春塵という季語がある、という新たな知識を反映させたわけである。俳句に比べると短歌はずっと制約が少ない。音数も多いし季語もいらない。俳句のほうが基本的には制約が多いので、その分考えやすいような気がする。また省略の美学が効果を発揮したときの言葉の連なりの切れ味は短歌も及ばないかもしれない。

そんなことを考えながら、いくつかの歌や句が脳裏をリフレインする。

あをぎりや灯は夜をゆたかにす(高柳克弘)

秋深き隣は何をする人ぞ(芭蕉)

バスを待ち大路の春をうたがはず(波郷)

君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車(堂園昌彦)

短歌や俳句は十分に短いので、印象的なものはわりと容易に覚えてしまえる。五音七音で構成されたリズムは日本語を母語としているととてもしっくりくる。だからすぐ暗誦してしまう。そうして歌や句は脳裏に繰り返される。繰り返されるうちにそれはどこかまじないのように思えてくる。あおぎりやともしびはよをゆたかにす。あおぎりやともしびはよをゆたかにす。きみはきみのうつくしいむねにしまわれたきかいでくどうするかんらんしゃ。きみはきみのうつくしいむねにしまわれたきかいでくどうするかんらんしゃ。定型であってもそうでなくても韻文は、まさしくリズムで、そしてそれは呪術の世界の言葉なのではないか。それこそ先ほど聞いていた経にも近い。言葉の意味は半ば失われ、音だけがこだまする。その音について考えながらアナグラム短歌を思いつき、すでに先達のあることを知った。

あるいは本や仕事のこと。実用書の場合だが、そして場所が違えば事情も違うかもしれないが、私は編集者として今後年に何本も書籍の企画を考えて提出せねばならない。いま、世に必要とされている本はなにか。私が知りたくてもわからないことはなにか。私の友人にとってのそれは何か。あるいは仮構したある人物にとってのそれは何か。調べてみないと商品として成立するかはわからないが、何を調べるかの種をいくつか思いつく。

もしくは勉強のこと。これは今日会った人たちが、同年代で(就職ではなく)学問の道を進もうとしている人が結構いてその話を聞いて多少当てられた部分もある。放送大学に1科目分の授業料と入学金を払ったので、選科履修生という扱いで入学することになる。テキストなどは、第一次の入金〆切に払いそびれてまだ届いていないが、とりあえずまた学生という身分を獲得するのはいいことだと思う。私はやめた大学で5年もかけて20単位くらいしか取れなかったような気がするのだが、親不孝とはもちろん思うが、それだけでなくもっと勉強しておけばいろいろと面白かっただろうなという(実に月並みな)後悔がある。でも私は何が学びたいのかよくわかっていない。少なくとも政治学は肌に合わなかったんだろうけど、だからやめたことは間違ったとは思わないけど、でもたとえば政治思想に関連する本でも面白いものは面白いしなあ。教養学部に入るのが一番無難だったのかもしれない。でもとりあえず私はもっといろいろなことを知りたい。放送大学で学士を取り直すかとかは先の話としてあまり考えていないが、それも若干視野に入れつつ、面白そうな授業を気長なペースで取り、あとは(放送大学になけなしのお金を支払う決意をした最大の理由である)図書館やデータベースといった知の高速道路を活用できればと思っている。

それからやはり、眠れないこと。立派な大会社に勤めているが、30を過ぎても生活リズムが定まらないまま、という方のブログを発見した。その立派な大会社はお辞めになったらしいが、プライベートの活動や今後の進路も含めて面白かった(私が読んだ記事)。誰もが知るような有名企業でも生活リズムが(今の私と同じように)わけわからんことになってしまっている人もあるんだなという安心感を覚えた。どうやって生き抜いてきたのかは気になる。もしかしたら他の記事を読んでいけば多少わかるかもしれない。

他にもなんか瑣末なことをいろいろ思い浮かべていた気がするが、大きく分ければこんなところか。そして文章に書き出すと頭がだいぶ静かになっているように思う。なにせ考えたこと(のごく一部だが)はもう文章として固定され、記録され、脳に留めておく必要はないのだから。このまま上手く眠れるといいのだけど。でも夜はいろいろと考えるべきことを考えられて、だから好きなんだと思う。でも眠れたほうがいいけどね。明日は仕事なので。

うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと(江戸川乱歩)