2022年1月31日 火曜日

先週国会図書館に仕事の調べ物をしに行ったが、必要な資料のうち1ページだけコピーし忘れたことに気づき、だるいなあと思っていた。まあいいかこれなくてもなんとかなるか、とも考えたけれど、変なところでこだわりがあるので、少し早めに退勤して国会図書館に駆け込む。

仕事の話なので本来業務時間中に行ってもよいのだが、上司にそれを説明するのが面倒なので、仕事を終えてからにする。よりによって、都内で都立中央図書館と国会図書館にしか所蔵がないような専門書だった。

国会図書館は平日は19時までで、資料請求と複写の申請は18時までである。先に本を請求し、必要なページを確かめ、複写申請をしなければいけないので、18時ギリギリに請求をしていたのでは間に合わない。しかし17時35分くらいに着いた。請求してから資料の受け取りまでに20分くらいかかるとされているので危ない橋である。

図書館には鞄などを持ち込めないのでロッカーに突っ込んでいたら「時間ないんだから行くよ!」と背広姿の中年の女性が部下と思しき男性に発破をかけていた。きっと毎日このような光景が繰り広げられているのだろう。

館内の端末で本を請求して待つ。少しトイレに行きたいような気がしたが、いつ本が出てくるのかわからないので耐える。途中、どうせ複写を申請したあとにも少し待たされるのだから暇つぶし用の本でも請求するかと、高柳克弘の句集『未踏』を頼む。これは絶版になっていて、古書の価格は八千円程度まで高騰している。

前回行ったときは20分といいつつせいぜい十分程度で資料を受け取れたのだが、終了間際に駆け込みで請求する人が多いらしく、17時50分になっても来ない。もう間に合わないかもしれない、その際は資料の内容をメモだけしていこう、などと思ったが57分くらいになってようやく受け取れた。

即座に複写申請書を出力し、必要なページを焦る気持ちを抑えて探し求め(1ページないことはわかっていたが、それがどこのページなのかはわかっていなかった)、見つかった瞬間にページを記入して複写カウンターへ。終了の1分前くらいだったと思う。ギリギリで複写を申請する仲間たちが列をなしていた。

無事複写の申請を終えて、そうしているうちに句集の方が受け取れるようになったので読む。タイトルにもなっている「未踏」というのは、「ことごとく未踏なりけり冬の星」という句(と、あとがきによればおそらく、俳句を作る上での態度でもある)から来ているのだと思う。この句と、「一月やうすき影もつ紙コップ」だけどこか(「橄欖追放」?)で見て知っていて、それで読みたいと思っていた。未踏の句は巻頭に来ていた。

高柳克弘は1980年の生まれで本書は2009年の刊行。2003年から2008年までの357句が、年ごとに章に分かれ、おそらく編年体で載っている。奥付に著者の現住所が記載されていて、昔の本だとよく見るけれども今時珍しいなあと思った。これはWikipediaにも書いてあるので公知として書くが、国分寺市に住んでいるらしく、私は幼い頃国分寺に住んでいた上、転居した後も実家は隣町にあるので親近感を持った。

私は短歌については以前から興味があり、人並みより少しは知っているのだが、俳句はほとんど何も知らない。それでもこの句集はかなりよかった。まず「序」で紹介されていた石田波郷の「バスを待ち大路の春をうたがはず」という句がよかった。高柳は晩年の藤田湘子(2005年没)に師事しており、波郷はさらにその師にあたるらしい。よいなと思った句をメモしたので、いくつか紹介したい。

木犀や同棲二年目の畳

特急の浮遊感覚ぼたん雪

少女寝て人形起きてゐる朧

飾るものなし花冷のくびすぢに

林檎割る何に醒めたる色ならむ

キャラメルの角のゆるくて水澄める

寒灯や造花は針金のつよさ

さみだれや擬音ひしめくコミックス

コスモスのなれなれしさよ旅衣

鳥語より人語まづしき小春かな

睦言といふには淡き屛風かな

見てゐたるをんなに見られ年忘

12句を挙げさせてもらった。俳句なので春から冬まですべての季節にわたって詠まれているのだが、私は秋の句、冬の句にとくに魅力があると思った(どれが季語で、あるいは季語がどの季節にあたるのかわからない句もあるのだが)。中身が良いだけでなく、ふらんす堂らしい美しいつくりの本であり、絶版になっているのが残念で、ぜひ手元に置いておきたい一冊。

短歌でも十分に言葉は圧縮されていると思うが、俳句はそれに比べるとなお切れ味がよく、これに比べると短歌も冗長に思える。たとえば「冬の星」で「ことごとく」とくれば、与謝野晶子の「冬の夜の星君なりき一つをば云ふにはあらずことごとく皆」を思い出すが、それに比べて「ことごとく未踏なりけり冬の星」は実に簡素ではないだろうか。十四音がないことでここまで印象が違うか。もちろんそれらはまったく異なることを詠んでいるのだが、短歌が冗長に思えるひとつの例として。

引用一句目の「木犀や同棲二年目の畳」という句のじめじめした感じが実にぐっとくるのだけど、後で調べたら高柳は早稲田大学の第一文学部を出ているらしい。私も学部は違うもののそこに通っていたのだが、なるほど「神田川」めいた湿っぽさである。合点がいく感じがした。先の引用は掲載順なので、後の句ほど後年に詠まれているのだが、最後の「見てゐたるをんなに見られ年忘」などはなんとなく、一句目に比べ歳を重ねた余裕を感じさせる。同棲は解消したのだろうかなどと気になってしまう。短歌も、歌の主体は作者自身であるという感覚が強いが、俳句はよりそのように受け取ってしまう。

ざっとすべての句を読み、気に入ったものを携帯でメモしているうちに、三十分が過ぎていた。複写はとっくに終わっていて、申し訳ないなと思いつつ受け取る。本を返却して退館し、新橋へ。図書館を出るとちょうど目の前に新橋駅前行きのバスが止まっていて飛び乗る。


新橋というか銀座というかその間あたりで(東京に土地勘のない人はご存知ないだろうが、新橋と銀座はとても近い)、七時半からある人を訪ねて打ち合わせをする約束があった。しかし四十分弱余裕があったので、二十分散歩して二十分喫茶店に入る。革靴が痛い。喫茶店といっても、ファミレスのようなドリンクバーが置かれていて、セルフサービス。10分間110円で利用できる、という形式の店。ニュー新橋ビルにあって煙草が吸える(というか店名からして「タバコ天国」という)。このような微妙な空き時間には実にありがたい仕組みだ。

銀座の端っこにある先方の事務所に向かい、打ち合わせ。小一時間で終わる。打ち合わせを終えて、先方に見送ってもらいながらエレベーターホールに出たとき、非常に強い既視感に襲われた。ここに来るのは初めてのはずなのだが。私は以前にもこれを見たことがある、私はこれを繰り返している、と確信してしまうような感覚。すぐに理性がそれを打ち消す。

ビルは銀座の裏通り。立ち並ぶスナックだかキャバレーだかの看板が北新地を思わせる。私は銀座にはほとんど用がないが、北新地は観光のついでに何度か行ったことがあるので、東京生まれなのにそう思ってしまう。高級な店にはほとんど縁がない私でも知っている「久兵衛」のある通りで、店の前には「予約車」のタクシーが連なる。この街でしか見ないような高さのヒールの女が行き交っている。祖母が昔銀座のキャバレーで働いていたと聞いたが本当だろうか。ここは俺のいるところじゃないなと思う。何枚か写真を撮って帰る。