秋はきびしい

去年くらいにはっきりと気づいたのだが、どうも秋が苦手らしい。秋になると精神的な調子が悪くなる。普段からどうということはないのだが、例えば仕事が忙しくなるとか人間関係で消耗する出来事があるとかすると、いつもよりだいぶ余裕がないなと思う。例えば春や夏だったら耐えられたであろうことが耐えがたくなる。いまはどっちもなので結構余裕がない。冬は寒くてそれどころではないので意外と大丈夫。

秋が苦手なことに気づいたのは良いのだが、それを意識し始めると秋の訪れを予感した段階でもういやな気持ちになりそうで困る。先入観を持って秋を迎えることになるので、余計にそのように感受してしまいそうだが、むしろ覚悟ができて良いのかもしれない。でも冬は常に恐れているのだが、秋の前の季節は夏なのでわりと浮かれていて、秋のことを考えないうちに秋が来てしまうというのが実際は毎年のことな気がする。夏の終わりは感じているけどそれが秋の始まりであることは意識していない。

そして不得意な季節が冬だけでなく秋もそうならば一年の半分は不得意ということになり、私は常夏の島にでも移住した方が良いのではないか。日本には四季がある、などと言われても誇らしい気持ちにはなれない。そしてまた四季はまるで日本にしかないようにそれを言う人の愚かさよ。普段ならば愚かだと思うだけだが、余裕がないので苛立ちさえ覚えてしまう。でも、四季があるから春の喜びも一入なのか。私にはわからない。

いつにも増して、なんてどうでもいいことを書いているのだろうと我ながら思う。どうでもいいことをひたすら書き連ねていかなければしんどいのでそうしている。文章はしばしば排泄物に喩えられるが、それは間違いではないと思う。しかしそんなものを読ませて申し訳ないという気持ちはない。強制して読ませているわけでもないので……。それに私なりにはサービス精神を発揮してこの仕上がりになっているので。

それにつけても思うのは、率直な言葉を交わすことはなんて難しいのか。しかしそれについては過去に書いたこと以上のことはないのでよかったら読んでみてください。

2022年2月21日 月曜日 「またお会いしましょう」 - プロムナード

近況(2023-09-19)

9月10日に大阪の文学フリマで雑誌などを出して、おかげさまで想定より多くの人にお買い求めいただいた。それは大変よかったのだが、そこで雑誌の入稿からイベントに至るまでしばらく気が張っていたのが抜けて、ここ一週間ほど調子が悪い。

まず生活リズムの問題がひどく、毎日寝る時間と起きる時間がバラバラすぎる。うまいこと朝起きられた日も執拗な眠気で夕方くらいに眠ってしまって、また眠れない夜を過ごして……という感じで、もはや夜型の生活リズムですらなく、変拍子である。眠れなくて眠い日と寝過ぎて眠い日ばかりだ。

そんな調子だと仕事もごまかしごまかし、なんとか打ち合わせがある時間には起きて、絶対にやらないといけない最低限のことだけをやるみたいな感じになり、他の仕事に手を付けられないで時間が経つうちにそれが「いい加減やらないといけないこと」に進化して、しかしずっと眠くて仕方ないので手が進まないというようになる。

仕事でその調子だから、プライベートはもっと破綻していて、やらないといけないこと、やりたいことはいくつかあるが、何にも手をつけていない。TwitterとTinderとはてなブックマークを眺め、それからいくつかの本を適当に読んでいたら三連休は終わった。こんなことをしていても何にもならない。

今日はまだ比較的調子の良い方なので、机に向かってこのような文章を書いている、というところまで書いて、キーボードを打つ手が止まった。言葉になる以前のもやもやで頭がいっぱいだが、それを言葉に置き換える力がない。

これは久々になかなかハードな調子の悪さだ。いつもは一週間くらい適当にやり過ごしていれば結構回復したものだが。これを書きながらも、とりあえず一時間くらい横になって休みたい、という気持ちでいっぱいになる。それができてしまう労働環境なのが幸か不幸か。もちろん今は就業時間中だ。今日は有休を取ってやろうかとも昨晩寝付けない間に思ったのだが、なんとなく目覚めたらいけそうだったのでついつい打刻してしまった。そもそも先週も何もしてないし。三連休もほとんど予定を入れなかったし、十分休んだはずではないか?

あまり海外に関心がないのだが、最近は海外旅行に行きたいなとぼんやり思う。現実逃避の欲求が強まっているのを感じる。しかし金も時間もないのでできない。すごいことだ。二日くらい前には仕事をやめたいということを入社以来初めて思った。やることが山積していく一方なので逃げ出したくて仕方がない。(こんな仕事ではなく)もっと楽しかったことがあったはずでは……と思う。

私はもともと、困っていることを解決するのが好きで、それでプログラミングを覚えたりした。だからもっと現実の問題に直接アプローチしたいのだが、編集者というのは普通にやっていたらすごく迂遠なやり方でしかそれをできない。普通ではないやり方、一般に書籍編集者の仕事とは考えられていないことまですればもっとダイレクトなアプローチもできると思うが、それをやる権限を得るためにはまず普通のやり方で実績を積まないといけない。それか、本業とは関係ないこととしてやるか。しかし一人でできることは限られているので、会社の力(金、看板、人手、来月の給料の保障)を借りてそれをやったほうが楽だし、そういうものなしでやろうとして何度かうまくいかなかったから就職したのだった。

などといろいろと書き連ねているが、それは幻想で、たぶん仕事がうまくいきはじめたらこんなに最高の仕事はないくらいのことを言い始める可能性は十分にある。そもそも一年半私がこれを続けていられるという時点で悪くはないのだと思う。もっと無理なときは早い段階で見切りを付けてきた。

暗い話の後には明るい話があればいいと思うのだが、びっくりすることに明るい話はひとつもない。でも本当は驚くべきことではなく、人生はおよそ、何もかもうまくいっているか何もかもうまくいっていないか、そして何もかもどうにもなっていないかのどれかだと思う。何もかもどうにもなっていないというのはほとんど理想的な人生かもしれない。

強いて言うなら、こんな調子でも今月も給料が振り込まれるというのが明るい話であり、経験的に、金銭的な欠乏は精神に良いことはひとつももたらさない。だから体調や精神が不安定な人ほどどうにかして安定した職業に就くべきだと思っているが、それが簡単にできれば苦労しない。それに私だって毎日出社するような職場であればずっと前に破綻していたはずだ。


最近読んだ本の話を——。

『つげ義春日記』
Kindle Unlimitedに入っていて、先週くらいに読んでいた。陰鬱な気分に合っていたが、これ以上読んでいるとより陰鬱になりそうだったのでやめた。朴訥な筆致は羨ましい。

『メガバンク銀行員ぐだぐだ日記』
昨日ブックオフで買った。毒にも薬にもならないものを読みたいと思って読んだ。毒にも薬にもならなくて良かった。知らない世界の人の話は基本的に面白いが、それ以上のものではない。

『謎の独立国家ソマリランド』
これもブックオフで目についたので買った。半分くらい読んだところ。俺って歴史にあまり関心がないんだなあと思う。人々がどう暮らしているか、いまどういう仕組みで社会が動いているかという部分はすごく面白く読めるのだが、歴史の話になるとそこまでの面白さはない。もちろんその歴史があって現在の生活、社会が形成されていることはわかるのだが。私が読んでいるのは単行本だが、文庫もあるよう。


こういう暗い近況を何度かしたためているので、自分でも前にもこれ読んだことあるなと思う。自分の進歩のなさに驚くが、そもそも人間が成長を続けるというモデルの方に違和感がある。「三つ子の魂百まで」のほうが私にはふさわしく思える。とはいえ、なんだかんだと変化はするもので、五年後とかにこれを見たら、この頃はまだマシだったとか、この頃は若かったとか、好き勝手なことを思うのだろう。


具体的なことは言ってみれば身も蓋もないことで、下品であり、それならもっと抽象的なことを書きたいが、私にはその能力がない。


夏が長い。夏が一番好きな季節だが、いまだに暑いのはどうかと思う。


私としては今月はもう十分頑張ったのだが、それは仕事以外の話なので、仕事ではまったく評価されない。人生は総体としてあるというのに、総体として評価されることはめったにない。そもそも誰に人生を総体として評価してもらえばよいのか? と考えたとき、それが神の役割のひとつだったのだろう、と気づいた。

文学フリマ大阪11に出店します

お知らせです。

私が参加しているtatazumiという団体があって、そこで企画した雑誌を9月10日(日)の文学フリマ大阪11で販売します。 関西方面にお住まいの方はお越しいただければ嬉しいです。

雑誌はオンラインショップでも取り扱いがあるので、遠方で興味のある方はそちらからもご購入いただけます。

文学フリマ大阪11 tatazumi(M-49・50)

  • 2023年9月10日(日) 11:00—17:00/参加無料・予約不要
  • OMMビル 2F ABCホール(地下鉄谷町線・京阪天満橋駅徒歩1分)

文学フリマ大阪11 – 2023/9/10(日) | 文学フリマ


Caraway Vol.1

雑誌・Caraway(キャラウェイ)を2023年9月に創刊します。「街と出会いなおす」をテーマにした雑誌です。

特集「山手線を一周歩く」は実際に山手線を一周歩き通し、その最中の会話を書き起こししたダイジェスト。そのほか、新進気鋭のアーティスト3名による写真と文章をお届けする「都市と写真の現在」、QuizKnockライターとしても活躍する志賀玲太氏の書き下ろしエッセイをはじめ、日記・小説・漫画・インタビュー・エッセイなど幅広い手法で街と街での生活に向き合います。

A5版・168ページです。オンラインでは以下でお買い求めいただけます。

tatazumi.booth.pm


文学フリマにはtatazumiの既刊、ほかのメンバーの出版物も持っていきます。『二〇二二年四月』には私(とほかの参加者)の日記が収録されているので、こちらももし興味がある方がいらっしゃったらお求めください。

今後、文学フリマ東京などほかの機会にも販売を予定しています。こちらでもお知らせすると思いますが、関心のある方は以下のTwitterをフォローしていただけると幸いです。

twitter.com

以上、お知らせでした。よろしくお願いいたします。

2023-08-07 Mon.

今月に入ってから、やるべきこととやらねばならぬこととやったほうが良いことがつねに脳の一隅を占めていて、それで余裕がなかったのだが、そのうちのいくつかはこなし、いくつかは優先順位を下げてやり過ごしているうちに、会社が今日から夏季休暇に入って小康を得たので、いくらか思い出しながら書く。


会社を休みふたたび実家へと戻った。眠れなかったのでいっそ起き続けることにして、朝早くに家を出て、京王線の下り列車に乗った。途中で久しぶりにコンサータを飲んだ。向精神薬の名前は、若干人を馬鹿にしているように思う。エビリファイやマイスリーはその顕著な例だ。コンサータはそれらに比べるとその意味するところが明確ではないが、concertare(イタリア語で「協調する」、コンチェルトやコンサートの語源)とか、あるいはconcentrateか、そのあたりの言葉のイメージを持たせようと努めた命名なのだろう。

税理士との約束にはまだ早かったので、事務所ではなく自宅の方へ行く。最寄り駅に降りたとき、空気が澄んでいると思ってそれに驚く。決して山のなかにあるとかではなく、いま住んでいる新宿から電車で小一時間ほどの、典型的な郊外の住宅地に過ぎないのだが、やはり新宿区の、一般的な給料の賃労働者が単身で暮らせるようなエリアとは違うものらしい。

父は既に起きていて、鍵は開いていた。犬が二匹いて、ひたすら吠えられる。少なくとも一匹については私は数年間一緒に暮らしていたのだが。もう一匹は、私が実家を出たあとにやってきて、一度だけ子犬だった頃に見たことがあり、まったく人見知りせずに私に近づいては顔を舐めるなど、愛玩動物らしい愛想の良さを見せていたが、今では成犬となり、先達と同じように愛想の悪い犬となったらしい。

居間にいようとしたのだが、犬が吠え続けるので仕方なくかつて私の部屋だった部屋に向かう。ここは妹の部屋になっていて、母と妹は韓国へ旅行しているため、私がそこで寝泊まりしてもよいことになっていた。結局、日曜の晩ではなく月曜の朝に向かったので実家に泊まることはなかったのだが。そこはかつてとはまったく異なる様式の部屋と化しており、私がかつて戯れに買ってほとんど遊ぶことのなかった安物のダーツボードだけが壁にかけられてその痕跡を残していた。

やがて税理士との約束の時間が来て、歩いて事務所へ。私が着いてしばらくすると、祖母が当然のようにやってきて彼女の机で仕事をし始めたので驚く。祖母はもう仕事をしてもそれが正常にこなせるような状況ではないはずなのに、それを判っているのかどうなのか、とにかくパソコンに向かって何かしている。何十年もそうし続けたので、それ以外にすることがないのかもしれない。

税理士はメールの字面から男性かと思っていたのだが、実際は女性だった。祖母が担っていた業務の状況はどうなっていて、そして今後何をすべきなのかという話をしてもらう。祖母が席を外したタイミングで重要なことを小声で話す。会社はいくつかの銀行に口座を持っていて、通帳は父が回収したのだがカードがない。父が何度か「カードを探してよ」と言うのだが祖母はそれを忘れてしまう。そもそも本人もカードがどこにあるか、おそらく隠したのだが、それをどこに隠したか覚えていないらしい。そして通帳を取り返そうとする。「これは私のものなのに」と繰り返す祖母はかなりいたたまれない。カードを隠すのも通帳を取り返すのもつまりは、私の仕事を奪わないでほしいということなのだが、父は「この会社潰れちゃうよ」と言ってそれを拒む。

税理士と午前中いっぱい話してから、書類の山に埋もれながら、父親とまず何をすべきか話す。税理士に任せられるような仕事はとりあえず後でやることとして、まずは祖母が金銭を扱えないようにしなければならないだろう。あらゆる通帳やカードを再発行せねばならない。また会社の方ではファックスでいくつかの口座に同時に振り込みができるサービスを利用しているのだが、祖母にそれを任せていると振り込み忘れたり多重に振り込んだりしてしまうので、それもすぐに止めなければならない、そんなことを話す。

ある限りの通帳や銀行印(これもどこの銀行印なのかわからないものがたくさんある)を持って祖父と父と私とで銀行へ行く。自営業者の父子三代が郊外の街を軽自動車で走って銀行に向かう道中は、とにかく『シンセミア』みたいな感じがする。血縁にまつわる混乱がある。銀行の掛員は私たちを何者だと思うのだろうか。

銀行では登記簿謄本がないと何もできないことがわかり、通帳と銀行印があれば窓口でお金を下ろせるので当座の現金を下ろそうとしたが、散々待たされて持ってきたすべての印鑑がこの銀行に届けたものではないことがわかる。徒労である。カードだけは止められたのでそうしてもらう。こんな法人があるのだろうか(たぶん思いのほかあると思う)。我々が祖母が隠したのではないかと思っているが、単にどこかに置き忘れてきた可能性も十分ある。再び気詰まりな車内に戻り、今度は法務局へ向かって謄本をとる。祖父は「あんなにぼけているとはなあ」とこぼし、私は「病院に連れて行って診断を受けて、場合によっては後見を使った方がいいんじゃないか」と提案する。祖父は「そんな急に私を病人扱いしないでよと言うだろうな」と言っていた。

事務所に戻ると(何も進展したわけではないのに、だからこそ)疲れ果てていて、そもそももう夕方になっている。ファックス振り込みの方は、さしあたりそれに必要な暗証番号を変えてしまおうということで、銀行のコールセンターに電話して手順を聞く。電話口の女性が「手前どもが」と言うので、今時本当にそんな言い回しを現実に使う人がいるのかとちょっと嬉しくなる。村上春樹の小説で「ドルフィン・ホテル」の掛員が使っていたほか見たことがない。

父親が書類を整理しながら「逃げたい」とこぼした。父は粗暴な人間だが仕事に対しては真面目で、そうした泣き言を口にすることがなかったので驚く。たぶん、愚痴をこぼせる程度に私が大人になったということなのだろう。私もだいぶ気が滅入っているのだが、こうした事務作業に対しては私の方がまだ忍耐があり、逆に父親の普段やっている肉体労働は迷う余地もなく逃げてしまうだろうから、人間には向き不向きがあるらしい。もちろん、立場の違いもあるとは思う。

今日これ以上できることはないので、帰ることにした。せっかくこちらの方へ来たのでいくつか行きつけだった店などに顔を出していこうと思っていたが、前回もそうしたし、また今後は何度も足を運ぶことになりそうだし、そもそも寝ていなくて何もする気力がないのでまっすぐ家へ帰る。コンサータには食欲減退の副作用があり、朝から何も食べていなかったので、相変わらず食欲はないのだが新宿で蕎麦だけ啜った。少なくとも天ぷらは美味しかったと思うが、それさえもどうでもよかった。

2023-08-01 Tue.

うまく眠れずうとうとしていたところを雷に起こされ、その30分後には自分が結構な、他人に迷惑をかける種類のミスをしたことに気づく。もううんざりして全然仕事なんかしなかった。8月はどうしようもない形で幕を開けた。

鬱屈としていたので夜、友人を誘ってダーツからのサウナでもやってやろうかと思ったが向こうの仕事が終わるのが遅く、もういいかと思ってやめてしまった。それで家でだらだらしていると父親から電話がかかってきて祖母がもう本当にぼけてきているとのこと。

直近にも記したように思うが、私の実家は自営業でいくばくかの資産があり、その経理やら事務やらを一手に担っていた祖母が、1年くらい前にはまだばりばりとこなしていたその人が、もう、同じ取引先に7回振り込んでしまうくらいおかしくなってしまった。振り込まないといけないという意識だけがあって、すでに振り込んだことは忘れてしまうらしい。

祖父は現役だが現場を主に見ていて、また元から結構狂った人でもあり、父親はその辺りに詳しくないし書類仕事が苦手で、母親はもっとそうである。

そういった経緯があり、電話口で、月曜に顧問税理士との話し合いがあるから、俺じゃわからないから頼むからなんとか来てくれないかと言われる。別に私が税務やらに詳しいわけじゃないんだが、勉強とコンピュータができるというので頼りにされているのだと思う。要は込み入った話を理解し、作業するための要員である。

血のつながらない父方の事業や資産などというのは、もちろんその恩恵をありがたく受けつつも私にはどこか他人事のようなものだったのだが、にわかにその現実的な手続きに巻き込まれつつある。しかし誰かが状況を把握して立て直さなければ実家の事業も資産も多分めちゃくちゃになってしまうわけで、それは直近では私の家族やほかの社員や取引先が困るし、私はとりあえず自活しているものの、最終的には自分自身にとっても不利益ではあろう。私だってめちゃくちゃで、いま正規雇用で働いていることが奇跡のようなもので、どうしようもない。なので、それありきで生きているわけではないにせよ、いざとなれば実家にいくらかの資産はある、というのを拠り所にしている部分もあるのだから。

そういうことを考えて、職場は有休をとり、月曜の話し合いに行くことにする。その経験もいずれ仕事の役に立つだろうな、とか考えている自分に気づく(なにせ私は実用書の編集者だから)。そんなのっておかしい。おかしいよ。祖母のことをさして心配できない自分に気づく。感謝はある。あんな立派な人はまれだ。しかし明晰だった人がこうなってしまったとき、私は何を思えばいいのかよくわからない。彼女のなかでは彼女はまだ明晰なままなのだ。いつかの日記で、彼女が胸が痛むので、父親に病院に一緒に行ってくれないかと頼んだことを書いた。しかし血液検査の結果は正常で、父親の所感としては、「誰か私に構って」ということだったのではないかとのこと。そんな人に何を言えばいいのか。血が繋がっていないから心配できないのか。そうは思いたくないのに。自分の母親がそうなった父親は何を思うのだろう。それでも、祖母の病により持ち上がってしまった懸案の方に意識が向いてしまう。それも自分の利益のために。これは私の冷酷さゆえなのか。

そのあと、昔のバイト先の社長と村上春樹が勧めていた『アメリカン・サイコ』を見た(春樹が勧めていたのは小説の方だが)。佳作。くさくさした今の気分にちょうどよかった。エンディングのあの感じも良いです。明日も仕事なのにもう午前2時半。うまく眠れるのか。さすがに明日は仕事せねばまずいというのに。しかし実際、そんなバランスを俺はなんのためにとっているのだろうか。いろいろなことが同時に起こって、もう頭がおかしくなりそうなんだよ!

ずっと自分が自分の人生を生きているという実感がない。どこか映画を見ているような気持ちで人生を捉えているのだが、それでも苦悩はある。苦悩として描かれているだけだとしても。そのようなものを与えてくる現実とはなんなのか。まずこれはどのような状況なのか。やっぱり映画みたいな話じゃないか? なんだか実感がないよ。でも映画じゃなくて現実なんだよなこれ。これが一回限りの生なんだよ。もうわけがわからない。彼女とも別れるしさ。なんなの。なんなんだよ! 何がどうなっているんだよ。25歳ってこんなにいろいろなことが一気にガラッと変わっていく年齢なの?

6月は悪いことが重なり、7月は忙しくも楽しかったのだが、8月はこの調子では、なんだか大変なことになりそうな気がする。立ち直りが早いのが私の美質ではあるのだけど。

2023-07-28 / 2023-07-29

2023-07-28 Fri.

会議は思いのほかダメ出しを食らわずに済んだ。まだ相談の段階なのでそれはそうかもしれないが、根本的になしという感じではなさそうで一安心。

夜、早稲田で人と会う。喫茶店に行こうとしたら休業していて、煙草が吸えることを最優先にして一休(居酒屋)へ。学生時代を思い出す。あんまり気乗りしない対面。大して飲んでいないのに脱水症状のようになって困った。暑すぎるためか。

2023-07-29 Sat.

久しぶりに大量のデザインをしなければならないのだがそれが難しく、ひとまずiPadで絵を描いてみる。小さい頃は絵を描くのが好きな子供だった。凝ったイラストを描くというよりさらさらと小物を描ければ楽しいような気がする。また趣味に加えてみてもいいのかもしれない。

夕方、知り合いと新宿でお茶。かなりしばしば会っていて、だいたい似たようなことを飽かずに話している。店を出ると夜で、最近夜は涼しい。先方は電車に乗って帰っていったが私はとりあえずブックファーストへ。売場が縮小されていて悲しい。

デザインに関連する本とかウエルベックの新刊とか『ハンチバック』とかを立ち読みする。結局何も買わずに出る。ウエルベックの新刊は買ってもいいかなと思ったが、今買ったら後先を考えず一気に読んでしまうだろうからとりあえずやめる。

ブックファーストに向かう地下通路はなにか饐えたような匂いがする。幼い頃の東京の街は、まだこのような匂いがする場所が結構あった。しかし近頃は浅草駅の古びた地下街でしかこの匂いを嗅ぐことはなかったのだが、また復活してきたのか。私は街が衛生的でありすぎることに若干違和感を覚えるので(それは最終的には清潔さを維持できる人以外を排除することによってしか達成されないので)、もちろん快い匂いではないが、こうした匂いが発生していることのほうが自然だと思う。

2023-07-26 / 2023-07-27

2023-07-26 Wed.

打ち合わせのため一回出社。手伝っている書籍の本文のデザインがデザイナーさんから上がってきたのでそれについて顔をつきあわせて話す。本文の書体について話していて、他社の類書を見て「これはリュウミンですね」と言ったら「え、わかるんですか? さすがですね、すごい」と言われた。「そんな合コンみたいな……」と思ったし、そう言った。「せ」が何だったかいつも思い出せない。

リュウミンはめちゃくちゃスタンダードな明朝体で、車で言ったらカローラだし煙草で言ったらマイルドセブンだしビールで言ったらスーパードライである。だからそれがわかることはそんなに特殊な技能ではないと思う。それを知っているのはデザインをかじっていたからだが、何が役に立つかわからないものだ。

そのあと家に戻って退勤したが、人と話したい気分だったところにTwitter(もうTwitterじゃないのか)でいいねが来たので、同じ業界で働いている高校の同期を飲みに誘ってみる。ちょうど校了を迎えたところだったらしく、ありがたいことにOKだった。互いにそう遠くないところに住んでいるので適当に落ち合う。

雑な飲み屋に入り、雑な酒を飲みながら、仕事の話。同じ業界と言えど職種も担当しているジャンルも違うので知らないことが多い。迫力のある話をいくつか聞かされて、面白かった。プライベートの話もする。25歳というのはいろいろな方向で結構考えることの多い年齢だと思う。

高校の人、特に同期と話すとけっこう元気になり、助かる。あのとき一つ屋根の下で(でかい屋根だが)授業を受けたりサボったりしていた人たちがいまどんなところで何をしていて何を考えているのか聞くだけでも、ずいぶん力づけられるような気持ちになる。思えば遠くに来たものだ。

2023-07-27 Thu.

そろそろ自分の企画を提出しないと、なんとなくだめな感じがするので、先々週くらいに「今月中に出します」と言ったのだが、今月もあと明日と月曜しかなく、企画を提出できるタイミングは水曜と金曜だけなので、今日やらないとまずい。ちょっとは手をつけていたのだが、一番大変なところが残っていて、重い腰を上げてそれをやる。

何度かここに書いていると思うが、企画を考えるのは本当にしんどい。会社やジャンルによって異なるだろうが、私のいるところでは実際に執筆する以外のことはわりと編集者が考えたり手配したりする。とはいえ本1冊書くのはそれより遙かにしんどいわけで、世にあれだけの書籍が流通しているのは奇跡のように思える。

ただ、たぶん慣れの問題もあるし、人脈ができて著者(候補)と相談しながら考えられるというのもあるだろうけど、ベテランの編集者は訳もなさそうな顔で企画をバンバン出してきたりするので恐ろしい。

執筆をお願いしようとしている人が書いてきた文章を読みながら、それらに通底するものは何か考える。あー、とかいや何もわからん、とか口に出してしまう(家なので)。1Kのさして広くもない部屋をぶつぶつ何かつぶやきながら歩き回ったりする。数学者はコーヒーを定理に変える装置だとか言った数学者がいた気がするが、いまの私はニコチンを本に変える装置だ、とか思う。実際に変えるのは著者だし、いまどきは編集者も書く方も煙草を吸わない人が多いのだが。

頭で考えていても限界があるので、その人が書いてきた文章のトピックをすべてアウトライナーに書いてそれを並び替えたりくっつけたりしていたら(それをやりたくなくて仕方なかったのだが)、なんとなく糸口がつかめてどうにか企画をまとめあげられた。しかし明日の会議ではおそらく盛大なダメ出しを食らうだろうと思う。そういうものなのだ。

仮に社内でOKが出ても、今回はまだ著者に打診していないので、そこでNGが出る可能性もあり(普通は順番が逆なのだが、ぺーぺーなので先輩諸氏のGOサインがないと話を持って行けない)、そうするとこの仕事はひとまず徒労に終わる。時代にそこまで左右される種類の企画ではないので、当分温めておくことはできるが……。

こんなに仕事の話を書いて大丈夫なのかと自分でも不安になるが、大丈夫な範囲でしか書いていないはずである。せいぜい自分の首を絞めるだけで、誰かに迷惑をかけることはないと思う。考えが変わったらこの文章は消えます。

退勤して、図書館へ。商業出版の媒体では書いていない著者だと思っていたが、最近ある雑誌に寄稿していることがわかり、その雑誌が運良く近所の図書館に所蔵されていたので。当該の記事を複写して即座にラーメンを食べる。店の前に自販機と灰皿のあるラーメン屋で、食後にオロナミンCを飲んで煙草を吸うという、頭が疲れたときの行動を完遂してしまう。

帰り道、すごいでかいクレーン車が誘導の車を引き連れて道を走っていた。働く車、つまり働くcarだ、とか意味をなさないことを考えている自分に気づきつつ帰宅。最近昼間は馬鹿みたいに暑いけどもう日が沈んで涼しかった。