2023年6月1日(木)

恋人と、一旦距離を置いてみようかという話になっている。「距離を置く」というのは別れることから、それこそどれほどの距離があるのだろう。付き合い始めてからそろそろ四年半が経つ。情はすごくある。だから別れるという言葉を使えないのではないかという旨を、遠回しに向こうは言っていた。

今までに何人かと付き合っては別れてきた。そして私はおおむね大丈夫だった。だから今回も問題ないと思う。私は立ち直りが早い。とはいえ気が滅入らないわけではない。せめて文章が感傷に走らないようにと気をつけているのだが、後から読み返したらだいぶ感傷的なものになっているのだろう。

仕事はさして手につかず、また幸か不幸か喫緊で手をつけるべき仕事もない。昼は肉を食べて、ブックオフに行った。なんだか散財してしまった。穂村弘の新しいエッセイがあったので買って読んだ。千葉雅也の『デッドライン』が文庫の百円棚に刺さっていたのをめざとく見つけて買った。そちらは半分くらい読んだ。以前にも図書館で借りて読んだことがあるのだが。『オーバーヒート』よりはこちらが好きだった記憶がある。『エレクトリック』は、まだ読んでいない。

明日の夜に、会って話す予定。時間が経つのがとても遅く感じられる。距離を置いてみてもいいかもしれないと思っている。お互いにそう思っている。私にはいくつかの提案がある。それを明日言ってみようと考えている。LINEの文面には親密さがそのまま残っている。

外は若干夏めいている。時間をどうやり過ごすか。パチンコでもしに行こうかと思う。あれは何も考えずにできるので、禅に近い。パチンコをするのは一年ぶりくらいな気がする。前回も夏の空気だった。このあと雨が降るらしいから、自転車で行ったら帰りが面倒かもしれない。明日は、大雨になるという。

近況(2023-05-30)

25歳になって一ヶ月と少しが経ったのだが、25歳という響きから想像していたよりは全然自分が成熟していないことにびっくりする。たとえば二十歳くらいのころから性格の基本的な方向性は大差ない。

大差ないのだが、しかしもうそこまで若くもなく、かつてあったような無鉄砲な陽気さみたいなものは幾分なりを潜めている。だから表面的にはきっと多少落ち着いたとは思うけれど、でもその後ろには依然としてナイーブな部分がそれなりに残されている。それが良いことなのか、悪いことなのかは判断がつかない。

最近知り合った人に「普段の生活はどんな感じ?」と問われて、「大学生の延長みたいな感じです」という答えが思わず口をついて出たのだが、後から考えても本当にそれがしっくりくる。

曲がりなりにも一年くらい会社勤めをしているのだが、職場の性質と働き方と自分の性格が相まって特段の通過儀礼のようなものを経験していない。毎日熱心に働いているわけでもない。学生の頃、フリーランスまがいのことをして遊ぶ金を得ていたことがあるのだが、そちらのほうがずっときつかった。

また学生の頃は、単位も取れず、将来の展望もなく、金銭的に安定しているわけでもなく、しまいには感染症が流行し、思いのほか精神的にダメージを受けていたようで、それを終わらせるために就職したのだが、そうしたら想像と異なりモラトリアムの延長戦が始まったような感じで、いまの状況は結構楽なものとも思う。大学院とかで疲弊している人は就職すると案外いいかもしれませんよ。でもこれはきっと私が幸運だということなのでしょう。

とはいえ世間ではもっと職場でしごかれてでもいるのか、たとえば久しぶりに会った人に随分やさぐれたなと思うこともあるのだが。それを望んでいるわけでもないが、そうでないために成熟しないということもあるのかもしれない。責任を取らされると人は老けますね。既婚者に特有の哀愁はきっとそこから来ている。

既婚者といえば、私は三年間クラス替えのない高校を出ているのだが、そのクラスのうち二人が今年に入ってから結婚した。よくもうその決断をしたものだなあ。ゴールデンウィークにクラス会があって、半分ちょっとくらい参加したのだが、結婚した二人は来ていなかった。そういうところかな、とも思う。

特にどこにも向かっていない文章を書いている自覚はあるが、どこかに向かおうとしているわけではないので、これで問題はない。ただなんとなく退屈で文章を書きたかったから書いている。そしてこれはTwitterで3ツイートくらいで記した内容の焼き直しなので、本当に書く必要がないんだけど。

この文章を読んでいる人はきっと私のツイートも見ている人が多いので、なにかしらサービスをしたいと思うのだが、サービスとして書けることがなにひとつ思いつかない。とりあえず今日上野の雑貨屋で流れていて、いまこれを書きながら流している曲をご紹介します。

セルフケアのようなもの

夜中にときどき、自分をぶつ。自分をぶつとき、どうしても全力でぶつことはできない。痛いのが怖くて、ちょっと力をおさえてしまう。そこをなんとか、目を瞑って、呼吸を止めて、できるだけ強くぶつ。

私はとても痩せていて、当然力もあまり強くないんだけれど、それでもぶてば思ったより頬が痛い。痛いと思いながらもう一度ぶつ。何度もぶつ。

数ヶ月に一度、そういう夜がやってくる。これは私が正気じゃないから、ではない。私は私なりにはまともだし、正気だと思う。ただ、生き方の方がたぶん間違っている。だから時折自分をぶつ。ものに当たるのは興味がない。人に当たるのも趣味じゃない。自分に当たるしかないわけだが、刃物は怖い。殴るのもなかなか痛い。ぶつくらいがちょうどいい。

つい先日も、そうだった。あのとき私は何を考えていたのかまったく覚えていない。覚えていないが、おおかたこのようなことを考えていたのだろう、とは言える。自分の人生は本当にこれで合っているのか、ということだ。

普段は、合っているふりをして、あるいはそんなことを考えずに、ただあるがままの日々を送っている。仕事にもたいして熱心ではない。燃えるような恋をしているわけでもない。なんとかごみをまとめて出す。三日放置した食器を洗う。してもしなくても良いような話。退屈しのぎのスクロール。そこにある日々。その繰り返し。その繰り返しが人生なのか。そう思わずにはいられない。

そういうときに、自分をぶつとなかなかすっきりする。猪木にぶたれた青年たちはみな晴れやかな顔をしているではないか。先日も目覚ましい効果があって、自分をぶったあとに、私の仕事の方向性は本当はこうでなければならない、自分はそれをやるしかないという緒をいくつか思い立った。自分で自分をぶちながら、仕事の懸案を考える。これは狂っているのかもしれない。でも、私だけがそうであるとはとても思えない。自分をぶつ以外でも何かしらの方法で、みな人生について考え直しているはずだし、もしそういうことがとくに必要でないなら、その方が狂っているとしか思われない。

私が知っているもうひとつの方法は、文章を書くことで、頬はこの前ぶったから、今日はそれを試している。近日中に終わらせねばならぬ、抱えている仕事が山ほどある。これは私がそういうハードな働き方をする企業に勤めているためではなく、私の怠慢のなせるわざだが、とにかくそういう状況であっても、あるいはだからこそ、文章を書くしかない。

セルフケアという言葉は、まるで自ら資本主義を支える丈夫な歯車になるための思想という感じがして、どうにも好きにはなれない。私が自分をぶつのも、文章を書くのも、本来はセルフケアとも呼べると思う。だが後者はともかく、自分の肉体を痛めつけることで、健全な労働者の姿からは遠ざかり、ゆえにそれはセルフケアではないとされるかもしれない。そして私がセルフケアという言葉が好きでないのはそこにある。だから私はそれらのことを、仕事以前、生活以前に、よく生きるための技法だと思っている。みなさんの技法も、教えてください。

アウフグース

昨日仕事してたら田中が、4月末までのクーポンあるからラクーア行こうやとLINEしてきたので、まあ給料日だしなと仕事終わってないけど退勤してラクーアに行った。

それで後楽園で待ち合わせてラーメン食ってラクーア行って、田中も仕事終わってなかったんでラウンジ的なところでちょっと仕事してから風呂入ったんだけど、更衣室に館内着とかくれる受付があって、そこで田中が「アウフグース予約しようや。めちゃくちゃええで」と言うので、言われるがままにとりあえず同意した。

予約した時間にサウナ室に入って待っていると従業員がやってきて、「本日アウフグースを担当させていただきます、○○です」みたいな挨拶をした。そしたら裸の男どもが拍手していて、なんだこの空間と思いながら俺も拍手した。

アウフグースというのは何かというと、従業員がタオルをぶん回して「熱波」を送ってくれるサービスである(たぶん)。ラクーアでは全部で3セットあって、最初の2セットはサウナストーンに香油をかけてリラクゼーション的な効果を持たせつつ、適度に空気を循環させて発汗を促すような感じ。

その2セットの段階でもう結構熱くて、人生で何十回もサウナ入ってきたと思うんだけど今までにないくらい汗が出てヤバいなと思った。熱波がやってくると男どもが「うぉー」とか「あちー」とかこぼす。俺も思わずこぼした。熱い。ここまではでもまあ気持ちいい範囲だった。

3セット目で、従業員が「それでは最後に、サウナ室上部の熱い空気を送らせていただきます」と言った。暖かい空気は部屋の上部に滞留するわけだけど、それをタオルで一人一人に下ろしてくれる。俺の座っていた位置と反対側から下ろし始めたのであっちの方から「ぐぉー」とか「あぅぐ」みたいな声にもならぬ声が聞こえてくる。

ところで、俺は基本的にサウナは湯船のついでという感じで、サウナ目当てで銭湯などに行くことは少ないのだが、田中は整い野郎である。サウナハットも持ってる。アウフグースも「めちゃくちゃええで」とか言ってたくらいだし、相当好き者なんだろう。

それでいよいよ俺と田中が座っているあたりに順番が回ってきた。俺は目を瞑って覚悟を決めた。そしたらもう信じられないくらい熱い空気がぶわーっと肌を刺した。ギリギリ耐えられるかどうかくらいの熱さで、ただ整い野郎の手前見栄を張って我慢していたら、横から風圧を感じ目を開けると田中が脱兎のごとくサウナ室を飛び出していた。我慢する理由もなくなったので、俺もあとに続いた。田中は水風呂に直行しながら「火傷するかと思ったわ」と言ったので「前もやったんじゃないの?」と聞いたら「前も火傷するかと思って出た」と言っていた。

なのにまた予約するんだからクレイジーだし、苦悶の声を洩らしながら熱さに耐えている1裸の男どももまた同様である。そんな光景をなぜ見なくてはならないのか。でも俺も機会があったらまたチャレンジすると思う。日常では味わえない異様さなので。


さっき以下の記事を読んで、タイムリーだなと思ったので書いた。私もサウナがやや意識の高い趣味としてオッさんの文化から簒奪されつつあることには、少し思うところはある。アウフグースは、おそらく「整い」の延長線上で流行り出したんだろうけど、結果としてはもはや整いどころではなく、「黙々と熱さに耐え、ひたすら汗を流す」といった古式ゆかしい価値観に近づいている気はする。徒党を組んで暢気に喋れるような空間でもないし、ここに和解のポイントがあるのかもしれない。

www.kansou-blog.jp


  1. なお、最初の従業員の挨拶でサウナ室が大変熱くなるので、体調に留意して無理をせずサウナ室を出るようにというアナウンスがあった。ただ兵どもゆえ田中と俺以外はまったくサウナ室を出て行かなかった。

古本に動かされ、雨にとまどう/2023-04-16(日)

6時頃目覚める。この前の投稿あたりから生活リズムが崩れ去っていたのだが、いっぽうで仕事がどさどさとやってくる状況だったので、カフェインやらの力で修正を試みたら今度は夜7時に眠って夜3時とかに起きる生活になってしまったのだが、さらに調整を重ね最近は22時就寝6時起床になった。

そのまま朝7時から働いて夕方に終えるような感じで、朝起きると仕事ははかどる。なぜ、起きている時間の長さは変わらないのに、午後に起きるような生活だと何もできないのだろう。とりあえずゴールデンウィークまでは早起きできるとよいと思うのだが、多分無理だろう。今日は日曜なので仕事はない。昨日の夜ご飯の残りを食べて、ビルを撮りに出る。摩天楼の高層階がかすむのが好きなので。

先日開業した東急歌舞伎町タワーもこの通り。まだ中には脚を踏み入れていない。

一旦家に戻り、10時過ぎに再び出て雑司ヶ谷へ自転車を走らす。もう晴れていた。明治通りを軽快に走る。

雑司ヶ谷で古本市があり、そこでこの前亡くなった目黒考二の蔵書を、本の雑誌社が販売するというので。国内の小説がほとんどで、すべて一冊200円。11時開始で10時50分ごろ会場に着くとすでに列ができていた。開場する頃には私の後ろに数十人は並んでいた。

道沿いに並んでいたのだが、ちょうどその並びに豊島区議候補の選対事務所があって、そこのスタッフと思しきおじさんに「これはなんですか」と尋ねられる。私の前に並んでいた人が「本の雑誌という雑誌があって……」と答えた尾をついで、目黒考二というこの前亡くなった書評家がいて、その人が持っていた本を売るのです、と言った。

そのあと、おじさんは他のスタッフに「有名な人の書いた本が抽選でもらえるらしい」と説明していた。前の人は「物事が正確に伝わるのは難しいですね」と言っていた。

そのような牧歌的な時間もつかのま、開場の案内とともに列が進む。人を押しのけて会場へ走るような人はなかったのだが、あっという間に本の前に人だかりができる。なにせ仕事として本を読んで紹介する人の蔵書だから、初版の単行本が多い。人波に揉まれつついくつかの本を落手。

会場は古本市なので、それ以外にも出展者がいて本を置いている。そちらでもいくつか買った。ある机にはBURSTという雑誌のバックナンバーが並んでいて、ちらちらと見ると、タトゥーやドラッグや走り屋といったアングラな感じの記事が多い。ちょっと面白いなと思い、500円以下なら1冊くらい買おうと、その辺の人に値段を尋ねたら、あ、ちょっと待ってください、と言い、ちょうど私の後ろにコンビニ袋を提げてやってきた人に「これいくらですか?」と聞いた。その人がこのブースの主らしい。

「あー、定価でいいかな? サインとかいる? 俺編集長だったんだけど」と言う。その号の定価は900円だったので、予算を上回っていたがこの流れで「ああ、じゃあいいです」とは言えない。せっかくなのでサインもお願いする。

「まだ若いよね、いくつ?」
「25です」
「BURST知ってんだ?」
「存在は」

サインをしてもらいながらそんな会話をする。存在は、と言ったのはまったくの噓ではなく、たしかに以前どこかでこの雑誌のことを見聞きしたような気がするものの、目の前にいる人が編集長だったことも知らないようなレベルである。後で調べたら、系列のBURST HIGHという雑誌が大麻の専門誌で、連載陣が捕まりまくったりして古書価が上がっているらしい。そのバックナンバーもいくつかあったので、そちらも買ってもよかったかもしれない。

それから、本をつめたバッグをかごにのせ、自転車で雑司ヶ谷をうろつく。この辺りはなかなか良い街並みである。朝はビルのてっぺんが見えないくらいだったのに、今や夏のような日差し。緑が多く、なんとなく夏休みのような気持ちになる。昨日は休みながら丸一日雨が降り続いていたので鬱屈としていたが、打って変わって良い気分だ。

私は電動アシスト自転車に乗っているので数キロメートルの移動などものの数にも入らない。まだ真っ昼間だしもう少し脚を伸ばして、そこで喫茶店にでも入ろう、と思い、とりあえず大塚を目指す。

しかし大塚にはすぐに着く。

大塚駅前。駅前広場には「ironowa hiro ba」という名前がついている。周りのテナントも「ba」と記されている建物が多い。地場の不動産屋がそのように街を開発しているらしい。(参考

山下書店大塚店。東京広しといえど、24時間営業の書店はここくらいでは。

うーん、まだ行けるな、と思って地図を見る。まだこの陽光のもとを走り抜けたい。神保町まではほとんど一本道で、自転車で二十分程度の道のりらしい。神保町には良い喫茶店がいくつかあるし、帰りも靖国通りを走っていれば家の方に着くので、ちょうどいいと向かう。

感じの良い公園

途中、後楽園あたりで自転車屋が目につき、軒先に無料の空気入れを置いていたので空気でも入れるかと立ち寄る。親子がそれぞれの自転車に空気を入れていたので、並ぶ。その合間に、根津に住んでいる友人に「神保町でお茶でもしないか」と誘う。友人は15時くらいなら行けると言う。

空気を入れて再び走り始めると空が暗くなり、風が冷たくなった。そこからすぐに大粒の雨がぽつりぽつりと降り始めて、神保町に着く頃には今にも大雨になりそうな感じだった。急いで駐輪場に自転車をとめる。

傘を持っていてよかった、と折りたたみ傘を広げる。雨が強くなる。みんなこんな雨が降るとは思っていなかったのか(実際雨の予報ではなかったと思う)、軒で雨宿りをしてなすすべもなく空を見上げている。私は急な雨に降られて茫然としている人を見るのがなんとなく好きだ。今日はたまたま傘を持っていたものの、私もよくそうした状況に陥る。普段は万物の霊長として肩で風切って歩いているが、俄雨くらいで人間は困ってしまうのだ。そんなに素敵なことはない。

ちょうど小腹が空いたので、雨宿りと友人を待つ時間つぶしも兼ねて嵯峨谷に入る。嵯峨谷は立ち食い蕎麦のようなつくりで、値段もそれくらいだが、十割蕎麦を出している。私は蕎麦は二八が好みなんだけど、その辺の立ち食い蕎麦よりちゃんと蕎麦の味がしてわりとおいしい。値段を考えるとかなりいい店だと思う。冷たい天ぷら蕎麦にする。かき揚げが乗っている。わかめはセルフで乗せ放題である。わかめの脇にある生七味を適宜入れると(蕎麦の味はわからなくなるが)よりおいしい。

蕎麦を食べている間、雨がスコールのように降る。雷も何度かとどろく。いつの間に通りを歩く人がいなくなり、店内の客もみな外をちらちらと見ている。香港やタイや沖縄の雨のことを思い出す。東京の天気もだんだんと亜熱帯のようになってくるのかもしれない。

食べ終わると、雨がいくらか弱まっていた。蕎麦屋を出てとりあえず東京堂に行く。東京堂は、週間ベストセラーがほかとまったく異なるラインナップになることで知られる書店である。しかし、本が詰まった鞄が重くてあまり集中して棚を見ることができない。これ以上本を増やす気にもなれないしと書店を出たらもう晴れていた。どういうことなんだ。なんですかこれは。しかし天気アプリを見ると、夕方にもう一雨来そう。自転車なので、帰るなら今かと思って友人にその旨を告げ、また今度、という運びになる。

なんですかこれは、と思いながら撮った写真

百均で買った布巾で自転車を拭いて、いったんは帰路につくも、数分漕ぐうちにどんどん日差しが出てきてこれはもう大丈夫なんじゃないかと再び天気アプリを開くと夕方の雨雲はどこかへ消えている。せっかく喫茶店のために神保町まで来たのだし、いくらか疲れてもいるのでもう覚悟して店入ろう、と来た道を引き返す。友人にもやっぱ喫茶店行くのでよかったらどうぞ、と言っておく。

俎橋(まないたばし)の交差点。ここで引き返すことを決意。

神保町に戻るとこの日差し。しかしよく見ると、空はやや暗い。

神保町には煙草が吸える喫茶店がいくつかあるが、私はだいたい壹眞珈琲店にまず行って、混んでいて入れなかったら他を当たる。今日はカウンターしか空いていなかったがとりあえず座れたので入る。何か甘い物が飲みたいと思い、飲むコーヒーゼリーなるものを頼む。ここはケーキもおいしいのだけど、さっき蕎麦を食べたばかりなので入らない。

友人も二十分ほどでそちらに着くとのこと。今日買った本を適当にめくる。店に入って気が抜けると疲れていたことがわかる。休みなく外にいて自転車を漕ぎ、やがて大雨に降られるのだからそりゃ疲れる。

やがて友人が来て、最近のあれやこれやを話す。先方は学生ゆえに暇で、まあ私も勤め人ながら暇なので、週に一度は会うのだが、彼が病に臥せたり私がちょっと忙しくしていたりして二週間ばかり会っていなかった。それくらいの期間で積もる話というのもおかしな言い回しだが、とにかく積もる話をする。私の飲み物が先になくなったので紅茶をお代わりして、二人して煙草をのみのみ話し続ける。

夕方になり、頃合いよく二人とも飲み物がなくなり喫茶店を出ると、雨が降っていた。うけるなと思ったが、話に出てきた「パチンコ屋の跡地にできた巨大な古本屋」で雨宿りをする。そもそもパチンコ屋なんかあったっけ? と思っていたのだが、案内されて行くとあーここかー、Twitterで見たわ、となった。

早稲田のあたりは東京では神保町に次ぐ古書店街で、私の通っていた大学の近くにもルネッサンスという店があった。そこが最近閉店してしまったのだが、その店主がここに移るというツイートを目にしていた。雑司ヶ谷で買ったのもいくつか早稲田の、別の古本屋のものがあったな、今日は古本に動かされる日なのだな、と思う。

店内はとても広い。これ以上持ち帰る本を増やしたくないと思いつつ、無理なので1冊買ってしまう。文庫だし、読みたい本だったからいいか。数十分ほどそれぞれ店内を彷徨し、満足したので出た。雨も無事上がっていた。そのまま彼は東京堂に行くというので、私はもう一度百均に行って再度布巾を求め、自転車を拭いて帰路についた。日が傾き、そのうえ二度も雨が降ったので昼間の熱が噓のようにひんやりとした空気だった。


今日買った本

雑誌BURST 2000年1月号。編集長・ピスケンさんのサイン。

右の4冊の単行本は目黒考二の旧蔵書。蔵書印などはない。しかし『ガダラの豚』などページに折り目がついているものもあり、それが元の持ち主の存在を偲ばせる。鷺沢萠はファンなので、デビュー作の初版本が手に入り嬉しかった。本の雑誌を目黒と一緒に始めた椎名誠の本はたくさんあった。一冊くらいは手に入れておくべきだろうと購入。江國香織はなんとなく。

文庫本は、一番左を除いて雑司ヶ谷で購入。山形浩生『新教養主義宣言』は、誰かが良いと言っていたぼんやりした記憶があった(帰宅して調べたらphaだった)。

稲垣足穂『一千一秒物語』はどこかに行ったので買う。マルキ・ド・サド『ソドム百二十日』(澁澤龍彦訳)はたしか最近友人が買っていて、ちょっと面白そうだったので。岸上大作『意志表示』は、短歌が収録されているのでとりあえず買う。歌集は古書などで安ければ、わりと買うようにしている。岸上大作の代表歌は以下。江戸川乱歩は通ってこなかったのと、あと装幀がよかったのでこの機に。

血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする

神保町で買った原武史『滝山コミューン一九七四』は、彼が育った、東京郊外にある滝山団地の小学校での経験に基づくノンフィクション。同じ著者の『「民都」大阪対「帝都」東京 思想としての関西私鉄』がとても面白かったし、団地ではないものの東京郊外の生まれ育ちとして興味があったので購入。

花見をした日、眠る前に考えること:韻文、本、勉強

今日は花見に行って、行く前は前回の記事に書いたような眠気に襲われていたのだが、とりあえず15分ほど横になりほんの少しだけ回復した気力をもってして代々木公園へと自転車を漕いだ。多くの人と久闊を叙することができよかった。晴れ間もあったものの夕方にはもう薄寒く、寒い寒いと凍えるような感じではなくじわじわと体力を奪われるような感じで、桜ももうかなり散っていたし葉桜にもなりつつあったが、桜についてはもう散々今年は見たのでよい。花見で花を見るものはなし。私も計画に一枚噛んでいたので、足を運んでくれた人には感謝。朝早くから場所取りをしてくれた友人には多謝。

春塵や旧友の目が霞みゆく

そのあと、飲み屋で二次会となりそちらにも流れで参加した。屋根や壁があって外気に直接さらされることなく暖かい空間で、ようやく話を落ち着いてできるような感じがした。くたびれつつ、自転車で数キロの道を帰った。ところで私は警察の横暴さを以前(私としては私にさしたる非はないと考えている状況で)経験したことがある。自転車の飲酒運転は、車のそれに比べるとだいぶ世間的に許容されている感があるものの、幸い酒をそんなに好むわけでもないので、一滴も酒は飲まないでおいた。下戸なのだが、量を過ごさなければ飲むのは別に楽しい。ただ飲まなくても、別に楽しいと思っている。コーラが一番美味しい。

さて以前も書いたことがあるが、私は疲れすぎると眠れないことがままある。今も完全にそれだ。丑三つ時もとっくに終わったというのに、そして数時間前にきちんと睡眠薬も服用したのに眠りの緒がつかめない。そういうとき、さまざまな方法を試す。さっきまで般若心経をループ再生で流していたのだが、眠れなかった(効くときもある)。

なぜ眠れないのかというと、体は疲れているのに頭は冴えていていろいろなことを考えてしまうからだ。今日は布団に入ってから考えた雑多のことを書く。ぼんやりとした考え事なので、特に論理立っているわけでもないし、正当とも思っていない。

たとえば俳句のこと。短歌はもともと関心があり、好きなのだが、最近は俳句の簡潔さに惹かれつつある自分がいる。どこかのブックオフで入手した歳時記をめくり、俳句の入門書を何冊か図書館で借りた。先ほどの句は自作で、そこまでよくできたとは思っていないし、まだ推敲の余地が存分に残されている——そしてそんな恐ろしいことはない。諦めたところがその句の到達点ではないか?——が、とりあえず春塵という季語がある、という新たな知識を反映させたわけである。俳句に比べると短歌はずっと制約が少ない。音数も多いし季語もいらない。俳句のほうが基本的には制約が多いので、その分考えやすいような気がする。また省略の美学が効果を発揮したときの言葉の連なりの切れ味は短歌も及ばないかもしれない。

そんなことを考えながら、いくつかの歌や句が脳裏をリフレインする。

あをぎりや灯は夜をゆたかにす(高柳克弘)

秋深き隣は何をする人ぞ(芭蕉)

バスを待ち大路の春をうたがはず(波郷)

君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車(堂園昌彦)

短歌や俳句は十分に短いので、印象的なものはわりと容易に覚えてしまえる。五音七音で構成されたリズムは日本語を母語としているととてもしっくりくる。だからすぐ暗誦してしまう。そうして歌や句は脳裏に繰り返される。繰り返されるうちにそれはどこかまじないのように思えてくる。あおぎりやともしびはよをゆたかにす。あおぎりやともしびはよをゆたかにす。きみはきみのうつくしいむねにしまわれたきかいでくどうするかんらんしゃ。きみはきみのうつくしいむねにしまわれたきかいでくどうするかんらんしゃ。定型であってもそうでなくても韻文は、まさしくリズムで、そしてそれは呪術の世界の言葉なのではないか。それこそ先ほど聞いていた経にも近い。言葉の意味は半ば失われ、音だけがこだまする。その音について考えながらアナグラム短歌を思いつき、すでに先達のあることを知った。

あるいは本や仕事のこと。実用書の場合だが、そして場所が違えば事情も違うかもしれないが、私は編集者として今後年に何本も書籍の企画を考えて提出せねばならない。いま、世に必要とされている本はなにか。私が知りたくてもわからないことはなにか。私の友人にとってのそれは何か。あるいは仮構したある人物にとってのそれは何か。調べてみないと商品として成立するかはわからないが、何を調べるかの種をいくつか思いつく。

もしくは勉強のこと。これは今日会った人たちが、同年代で(就職ではなく)学問の道を進もうとしている人が結構いてその話を聞いて多少当てられた部分もある。放送大学に1科目分の授業料と入学金を払ったので、選科履修生という扱いで入学することになる。テキストなどは、第一次の入金〆切に払いそびれてまだ届いていないが、とりあえずまた学生という身分を獲得するのはいいことだと思う。私はやめた大学で5年もかけて20単位くらいしか取れなかったような気がするのだが、親不孝とはもちろん思うが、それだけでなくもっと勉強しておけばいろいろと面白かっただろうなという(実に月並みな)後悔がある。でも私は何が学びたいのかよくわかっていない。少なくとも政治学は肌に合わなかったんだろうけど、だからやめたことは間違ったとは思わないけど、でもたとえば政治思想に関連する本でも面白いものは面白いしなあ。教養学部に入るのが一番無難だったのかもしれない。でもとりあえず私はもっといろいろなことを知りたい。放送大学で学士を取り直すかとかは先の話としてあまり考えていないが、それも若干視野に入れつつ、面白そうな授業を気長なペースで取り、あとは(放送大学になけなしのお金を支払う決意をした最大の理由である)図書館やデータベースといった知の高速道路を活用できればと思っている。

それからやはり、眠れないこと。立派な大会社に勤めているが、30を過ぎても生活リズムが定まらないまま、という方のブログを発見した。その立派な大会社はお辞めになったらしいが、プライベートの活動や今後の進路も含めて面白かった(私が読んだ記事)。誰もが知るような有名企業でも生活リズムが(今の私と同じように)わけわからんことになってしまっている人もあるんだなという安心感を覚えた。どうやって生き抜いてきたのかは気になる。もしかしたら他の記事を読んでいけば多少わかるかもしれない。

他にもなんか瑣末なことをいろいろ思い浮かべていた気がするが、大きく分ければこんなところか。そして文章に書き出すと頭がだいぶ静かになっているように思う。なにせ考えたこと(のごく一部だが)はもう文章として固定され、記録され、脳に留めておく必要はないのだから。このまま上手く眠れるといいのだけど。でも夜はいろいろと考えるべきことを考えられて、だから好きなんだと思う。でも眠れたほうがいいけどね。明日は仕事なので。

うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと(江戸川乱歩)