ぬるりと新年度

明日から四月。新年度だが、いまひとつその感覚が薄い。休みがないからだと思う。これまで新年度といえば必ず数週間程度の休み明けで、断絶があったわけだが、それに比べると随分ぬるりと新年度が滑り込んでくるような感じがする。

私は明日(しかし明日は土曜なので実質的には来週の月曜に)異動するのでまだいくらか代わり映えがあるが、世間の多くの人は別に新年度だからといって何かが変わるようなこともないのだろう。

今までは校閲で修行を積んでいたのだが、それを終えて編集部に移る。本の編集者になるというのは自分にとっては望ましいことだが、部署も移るし気合いを入れてやるぞ! とかそうしたマッチョなことはまったく考えられないくらい今週むやみに眠い。基本的に寝付きが極めて悪いのだが、近頃は夜もすぐ眠ってしまうし、それで十分な睡眠時間をとっても、昼間も仕事に支障が出るくらい眠い。仕事を終えても眠いので生活もままならない。

これを書いていてもまぶたが落ちそうで、頭も回らないのでたいしたことも書けない。異動するだけでなく、個人的にもいろいろとやることのある時期なので結構困る。生きていればそういうときもあるとは思うけど。春の空気が私を不安定にする。

水温む出勤したくないといふ (荒井八雪)

春の夜で

今日は昼過ぎまで眠っていて、案の定夜眠れない。月曜は有休をとって四連休だったけど、午前中に起きられた日ってあるだろうか。明日は仕事だ。ちょっとくらい寝不足でもなんとかなるとは思うけど、月並みな発想だけど、眠れない夜と朝の抗いがたい眠気を交換してほしい。

東京では桜が見頃を迎えている。ソメイヨシノはすべてクローンだから一斉に開花するんだと聞いていたけど、今年の桜はもうすでに満開の木もあれば、まだぽつぽつとつぼみが残っているものもある気がする。いずれにせよ、桜が咲いていると街が一気に華やぐ。一年のうちに数週間しか花をつけない木を、その数週間の楽しみのために日本中に植えているのは、ちょっと豊かなことだと思う。私は四月の中旬生まれで、数年に一度は私の誕生日にも桜が見られるのだけど、近頃は開花が早くてかなわない。それは少し悲しい。

気持ちが昂ぶっているとうまく眠ることができない。ここ数日、眠る前は、まず西東三鬼『神戸・続神戸』を一話ずつ読む。戦時中、「単身、東京の何もかもから脱走」(p.9)し、神戸のトアロード(三鬼は「トーアロード」と書く)のホテルに長期滞在していた三鬼が、そこで出会ったさまざまな国籍と文化を持つ人々との出来事を記した連作短編集。著者の経歴では「自伝的作品」とのことだから、フィクションも含まれているのだろうが、それはどうでもいい。

抑制された筆致ながらも、ユーモアとペーソスに満ちあふれた抒情的な文章は、眠る前に少しずつ読むのにちょうどいい。『神戸』十編、『続神戸』五編が収められていて、まだ『神戸』の第七話までしか読んでいない。一夜に一話、どうしても続きが読みたくても二話まで、と決めている。新潮文庫の帯には、「戦時下の神戸に、幻のように出現する『千一夜物語』の世界」とのコピーがある。まさしくそれがふさわしい。同じ神戸を舞台にした、『一千一秒物語』から幻想的なモチーフを排したような印象も受ける。

先日東中野のブックオフで入手したのだが、奥付を見ると「令和元年七月一日発行」とある。また帯を見ると「名著復活」ともある。最近まで絶版になっていたのだろうか。こんな面白い作品が眠っていたなんて。

それを読み終わると、いくらか心は安らいでいるのだが、まだ足りないのでだいたい、部屋を真っ暗にして、煙草を吸う。携帯を見たりもしないで、暗い部屋に煙草の赤い火だけが私の呼吸に合わせて明るくなり、暗くなる。そしてグラスに注いだ冷たい水をゆっくりと飲む。そうするとかなり落ち着く。

いまはもう暖房をかけなくても寒くはない春の夜で、私は、私の給料から家賃を支払っている私の部屋で、ただ静かに煙草を吸う。それは本当に幸せな時間で、人生にこれ以上の喜びがあるだろうか。この部屋で私は孤独で、それゆえに私はとても自由だ。それは本当にぜいたくな時間だ。

今日はでも、それをしてもまだ眠ろうという気になれなかった。私はこれを書き残しておかねばならないと思う。いまはもう春の夜で、街には桜が咲いていて、私は好みの本を読み、自室で煙草をくゆらせる。私はこの自由を(たとえ明日の朝には仕事をせねばならないにしても、)いま得ている。いつまでも世界が春の夜であり続けたらいいのに。でもそれはかなわないから、私はこれを書く。

ヒッチハイクと人生は同じなのかもしれない

私はかつて、何度かヒッチハイクをした。金のない人間がどこか遠くへ行きたいと思ったとき、夜行バスか18きっぷかヒッチハイクのどれかを使うことになる。いずれもよく使ったが、移動手段としての面白さはヒッチハイクが最も大きい。そのうえ無料である。

大学に入って最初の冬休み、私は関西へ向かった。行きは18きっぷで在来線を乗り継ぎ、帰りはヒッチハイクをした。なぜか覚えていないが、大晦日に東京へ戻ろうとしていた。大晦日というのは、世間では家族連れを乗せた車が大量に帰省なり旅行なりをする時期にあたる。そしてふつうの家族は、どこの馬の骨とも知れない若い男を旅の道連れにしない。まれに奇特な家族もいて、そういう人たちは度を超して親切だったりするのだが、それはそれとして数が少ないのでなかなか乗せてくれる人が見つからない。

私はヒッチハイクでは、ほとんど高速道路しか使わない。どこかのサービスエリアからどこかのサービスエリアまで乗せてもらう。経験的には、大きめのサービスエリアの建物のまえで三十分もスケッチブックを持って立っていれば、だいたい乗せてくれる人が見つかるものなのだが、大晦日はそうもいかず、関西から東京へ戻る道中、夜の浜名湖SAで三時間待った。寒いし疲れると思うのだが、あまり辛かった覚えがない。

でもとにかく、ついに真冬のサービスエリアで突っ立っている私を見かねて、話しかけてくれる人がいた。それは二十代後半くらいの女性だった。後にも先にも、女性一人の車に乗せてもらったことはない。私からしても、乗せない方がまずいいと思う。だがその女性は、サービスエリアでご飯を食べる前に私を見て、ご飯を食べたあともまだ立っている私を見て、しばらく悩んだ末、「まじめそうだから」声をかけたと言った。まじめな人はヒッチハイクなんてするだろうか、と思ったが、それはよかったです、と言った。

東京までその人に乗せてもらった。三時間あまりの道中、話はいつになく盛り上がった。穂村弘が好きだということとか、その人が軽自動車でどこまででも運転できることとか、そんな話をしたのを覚えている。めったに乗せてくれた人と連絡先を交換しないのだが、私が(数カ月後に)二十歳になったら飲みに行こうという流れになって、LINEを交換した。もう高速を降りて、東京の綾瀬という駅の近くで車を止めていた。私はそこで降ろしてもらう手筈だった。

QRコードを見せながら「ミキといいます」とその人は言った。LINEの名前にはローマ字でMikiとあった。「なんて書くんですか?」と聞いたら「三本の木です」と言うので、苗字ですかこれ、とつぶやくと、「そりゃそうだよ、下の名前をLINEに設定しないよ」と言った。そんな人は周りには大勢いるのだけど、これが大人の感覚なんだろうか、などと感じた。

お礼を言って別れて、私はそのまま、家に帰るための電車を綾瀬駅のホームで待ち、新しい年を迎えた。終夜運転を乗り継いで東京西郊の自宅に戻った。私はその年の四月に成人し、酒を堂々と飲めるようになったが、とくにミキさんに連絡をとらなかった。もちろん、その後も今に至るまで、連絡をしていない。少なくとも車中で三時間話をし続けられたのだから、飲みに行ってもお互い厭な思いをするほどのことはなかったと思うのだが、なんとなく。

そういうことを、さきほど夜な夜な目覚めて、『ノルウェイの森』を読みながら思い返していた。『ノルウェイの森』は本当に何度も読み、筋をあらかた覚えているので、何の気負いもなく読める。深夜の無聊をなぐさめるために、暇つぶしとして読んだに過ぎないのだが、この小説を一番読んでいた頃——ちょうど十代と二十代の境目にヒッチハイクを繰り返していた頃——に比べると、全然面白くない。

私は今年二十五になる予定で、数時間後には仕事をせねばならない。この小説に充満する学生気分がもうあまりなじめない。この小説をもっとも力を入れて読んでいた時代を思い出し、ヒッチハイクのことも思い出し、いくつか写真を見て、ヒッチハイクと人生は同じじゃないかと思った。

偶然に人と出会い、仲良くなったりならなかったりして、仲良くなったとしても、いずれ環境の変化によって交流を失う。期間は変わるものの、ヒッチハイクも人生も同じなんじゃないか。どんなに仲良くなっても、車を降りてしまえばそれまでだ。私は、人生においては定期的に接点を復活させようと努める傾向にあるのだが、それにしたって、交流の途絶えてしまった人などいくらでもいる。それが必ずしも悪いこととは思わないのだが。

ヒッチハイクをしたときの写真を見ると、リュックにマフラーがくくりつけてあった。これはその少し前に、当時付き合っていた(それとも今にも付き合うところだったのか、もう思い出せないが)女性からもらったもので、今では手許にない。その人は高校の同期で、私の通っていた大学の近傍にある女子大で哲学を専攻しており、数カ月付き合って別れた。それから五年が経ち、私は大学をやめ、就活らしい就活もせぬまま今の会社に潜り込み働いている。彼女は真面目に大学を出て、そして堅い職場に勤めていると聞いている。

そういう場所に私は来てしまった。当時、そんな状況を想像もしていなかった(大学はいずれやめるだろうな、という予感はあったが)。とにかくそのときそのときのことを考えていた。暢気だったのだなと思う。その彼女とも、もう数年は会っていない。そのようにして人生は進み、いずれ終着点を迎えるのだろう。そういうことを考えるようになった。まだ若いと人は言うだろうが、それは「もう若くない人たち」のなかで若いだけじゃないだろうか。こんな文章を書いているのが、かろうじて私に残された若さだとは思う。楽になりたい。

居酒屋に若者たちは美しく喋るうつむく煙草に触れる (堂園昌彦)

ADHD/ASDの発達障害者が精神障害者保健福祉手帳(3級)を取得するに至るまでのすべて

月曜に精神障害者保健福祉手帳を受け取った。私は今年25になる予定で、大学1年の秋にADHD/ASDの診断を受けてから5年が経つ。手帳を取得したというのはひとつの節目のように思われるので、幼少期から長じるにつれて発達障害の疑いを持ち、診断を受けるまで、診断を受けたあとの生活、手帳の取得を検討して実際に受け取るまでの経緯を記しておく。手帳を取得することで得られる実利にも少しは触れると思うが、それはインターネットで調べてもらった方が早い。

とても長い文章なのだが、以下、適宜章立てしているので興味のあるところを読んでいただければと思う。

障害の診断を受けるまで

最初は診断を受けた後のこと、せいぜいここ3年くらいのことを記すつもりだったのだが、良い節目だとすべてを思い出していたら生まれてから現在に至るまでの記述になってしまった。興味がない人がほとんどだと思うし、発達障害の人には特に馴染み深い、「ふつうの」エピソードが続く。見出しを設けているので、「コロナ禍の精神的な不調」以降から読んでもらえれば手帳の取得に至る事情は十分判ると思う。逆に発達障害を持っていない人にはこういうパターンがあるのかと面白いところもあるかもしれない。ただ、あくまで一例に過ぎず、すべての発達障害を持つ人に適用できるわけではない。

幼少期

エピソード記憶が抜け落ちがちなので、よく覚えていないのだが、幼い頃から私はどうも、いろいろな意味で普通ではなかった。家庭環境という点では、私は父親を知らず、母は水商売で食い扶持を得て、そのお金で母方の祖母と暮らしていた。性質から言えば私は言葉に関して早熟で、幼稚園に入る頃にはひらがな、カタカナ、簡単な漢字、アルファベットを書けた。そしてとにかく寝つきが悪かった。祖母はひたすら寝かしつけようとしていたが、日付が変わる頃まで起きていることもざらだった。外見の面では幼稚園で唯一金髪の子供だったが、それは遺伝によるものではなく、母の趣味で後天的に染めただけである。

小学校に上がって養子になる

小学校に上がると水泳の授業があり、私は顔を水につけるのもいやだったので、同じような友達と一緒にスイミングに通うことになった。しかし苦手なことを訓練するのが苦痛で仕方なく、とりあえずクロールでぎこちないながらも泳げるようになったあたりでやめてしまった。一緒に入った友達は四泳法をマスターしていた。水泳は極端な例だが、いまでも運動は全般的に苦手だし、体力もない。

勉強の方は特段問題はなかったのだが、通知表には「好奇心旺盛」と「落ち着きがない」、それから「忘れ物が多い」といつも書かれていた。好奇心旺盛というのは一見いい意味のように思われるが、今考えると飽きっぽく常に新しい刺激を求めていたのがそう捉えられていたか、あるいは先生の間では「飽き性」の定番の言い換えなのかもしれない。

3年になると母親が結婚して、私はその夫婦と特別養子縁組をした。祖母との生活に別れを告げ、転校して苗字も変わり新しい父と実の母と暮らし始め、すぐに父親の違う、歳の離れた弟が生まれた。数年後には妹も生まれた。

父自身は学があるとは言えないが、父方はもともと教育熱心な家庭で、父もその考えを受け継いでいたので、私はくもんに通うことになった。それも嫌で仕方なく、しばらくすると勝手にさぼって本屋とか行っていた。何回かはやり仰せたのだが、やがて教室から家に電話がかかってきてもちろんバレた。なぜかはわからないがあまり怒られなかった気がするが、とりあえずさぼるのはやめた。

厳しい中学から緩い高校に入る

そのようにして教育に投資を惜しまない家庭で、父親も口うるさく勉強せよと言うので、少しは勉強していた。私が中学に入る時期はちょうど都立中学の誕生から数年が経ち、盛り上がりを見せた頃で、私もこれ以上馬鹿な同級生と過ごしていくのはごめんだと思っていたし、親もせっかく勉強ができるのだからチャレンジしてみてもよいのではということで、1年くらい塾に通ったが、それはあえなく落ちて地元の公立中学に進んだ。

私は決して真面目ではないのだが、公立中学では勉強ができる子というだけで真面目だと思われるので、親や先生の期待に応えて、また内申点を気兼ねして、それなりに従順に過ごしていた。従順に過ごしていたら生徒会長までやることになったが、いま考えると私なんかがそんなことをやっていた公立中学というのは人材が払底しているのだなと感じる。それでも勉強のできない馬鹿な同級生——と当時思っていた人たちは、今では立派に働いて子供を育てている人までいるのだから、私に比べれば実際はずっと真面目だったのだと思うし、そもそもあのような環境で従順に過ごし、生徒会長なんかやっているほうが人間としてまともではない可能性すらある。皆が高校受験をする関係で、勉強ができることが純粋にひとつの価値として認識され始めるので、小学校に比べると人間関係の面では過ごしやすかったが、くだらない校則にはうんざりだった。

制限の少ない学校に行きたいという一心で勉強したので、地域ではトップクラスの高校に進学できたが、そこは本当に緩かったし、勉強ができるということで何か偏った見方をされないので大変居心地がよかった。しかし緩かったので遅刻の常連となり、やがて授業もさぼるようになった。授業についていけないという経験をしたのも高校が初めてだった。ついていけない授業というのはこんなに苦痛なのか、と中学の同期のことを思い出したりした。その上先生が厳しいんだから中学は大変だ。出席状況も成績もさして良くなかったがそれでも高校を卒業できたのはひとえに教員の方針のおかげである。

大学受験と進学

建築に興味があったので高3の進路選択で理系を選択したが、私が数学や理科に対応できたのはせいぜい公立中学の授業範囲までで、そこから先は明らかに文系科目とは差がついた。高校受験の段階で難しい学校の数学は解けなかったので苦手と判っていたのだが、謎の克己心のようなものが湧き上がってえいやと数学Ⅲや物理や化学を履修した。そのわりに勉強するわけでもなかったので、特に克服できなかった。

父からは「私大の学費を払うのは構わないから、私立に行ってでも浪人はするな」という厳命を受けていた。浪人して国立大学を目指すのが当たり前の学校だったので、当時はやや反発する気持ちもあったのだが、その頃には自分が怠惰である自覚があり、自分でも浪人したところで勉強しないだろうと思ってもいたので、言いつけに従おうとしていた。しかし理系の科目は相変わらずまったくわからないし、やる気もなかったので、秋口に文転を決意した。センター試験はもう出願し終わっていて、科目変更もできないタイミングだったので、国立大学は理系科目で受けられる文系の学部を受けることにして、第一志望は国語・英語・社会の3科目で足りる私大の文系学部に変更した。

現代文と英語は得意だったのでなんとかなりそうだが、社会科が問題だった。地理や歴史科目を履修していないし、勉強もしていないので、ボリュームが少ない「政治・経済」(科目)で受けられる大学で一番良いところ、と狙いを定めて早稲田大学の学部をいくつか受けた。全部落ちたらさすがに親も浪人を認めてくれるだろうと、私大は早稲田しか出願しなかった。それで政治経済学部に進学した。良くないことなのだが、俺はここぞというときにはなんとかする力があるな、と思った。

法律はもともと関心があり、法学部に受かった時点ではそちらに行こうとしていたのだが、まあ政治もニュースとかで見れば面白いし、何よりブランドがあるなと思って政経を選んだのだが、やがて私に興味があるのは政局で、政治学は政局ではないということに気づいた。もっと勉強すれば面白さも判ったのだと思うが、大学というのは高校より自由なものだと思っていたのもあり、授業をさぼっていたら1年の春学期から必修も含めて単位を落としまくった。興味もないし、生活リズムもめちゃくちゃだったし、朝起きられたとして実家から通学する満員電車にも耐えられなかった。

余談だが、政治経済学部では受験科目として国語と英語は必ず、ほかに数学、日本史、世界史、政治・経済から1つ選択する仕組みだったのだが、政治・経済で入った友人たちはことごとく不真面目だった。私が入った翌年だかに(政治経済学部なのに)政治・経済が廃止され、友人たちと政治・経済選択者の成績が不振だからだなどと噂した覚えがある。今では数学が必須になっているはずで、隔世の感がある。

発達障害の疑いを持って診断を受けるまで

単位を落としまくった私は、ここでようやく自分は何かおかしいのではないか、と疑問を抱いた。思い返せば、ここまでに長々と記したようなエピソードに彩られた人生であり、周りの人と比べてもいくらなんでも怠惰すぎる気がする。当時はすでに『大人のADHD』みたいな本が書店を賑わせており、ほどなくその存在を知り、インターネットで一通り調べたあたりではもう自分はそれに違いないという確信を抱いていた。

それで家の近所にある精神科に行った。医師と話して検査を受けることになり、臨床心理士のもとで知能検査を受け、面談をした。知能検査はIQを測るのだが、それだけでなく群指数というものが判る。言語理解、知覚統合、作動記憶、処理速度という4つの分野に応じて課題が出され、それぞれのスコアが出る1。それらが群指数である。

一般的には、脳の発達は全面的なものなので、IQが100の人は群指数もすべて100前後となる。発達障害というのは(正確性を犠牲にすると)脳の発達の偏りなので、それが数字に表れる。群指数間で15以上の差があると発達障害の疑いがあるとされるらしいが、私は最大で36の差があった。言語理解と作動記憶が140前後で、知覚統合と処理速度が110前後だった。それらをひっくるめた全検査IQは130くらいに落ち着き、それはメンサにギリギリ入れないくらいの数字で、医師はADHD、それからASDの診断を下し、総括すると「頭が良いから大丈夫」というような話をした。大丈夫だったら精神科なんか来てないよ、と思った。

とにかく、私は今やADHDとASDの診断を受けた、発達障害のある人間となった。両親にそれを告げると、母は「やっぱり! 何かおかしいと思った」と言った。私の生みの父親もだらしない人だったらしい。父は「精神病なんて不眠以外は全部甘えなんだよ」と言ったので、それ以降病気の話はしていない2。精神科の医療費はほとんどバイト代で賄っていたが、母親がときどき出してくれた。

診断を受けて感じたのは、おそらく全員がそうだと思うが、私の怠惰は単なる甘えだけではなく、脳の器質によるものなのだ、という安堵だった。それからASDについては自覚していなかったので意外なところもあった。でも思い返してみると、ASDらしい性質はとくに幼い頃には強く、経験によっていくらか補正したのだった。今でももちろんそうした要素は残っているし、端から見ればそれはもっと判りやすいのかもしれない。

別の医師にかかり投薬を受ける

ところでその医師はできるだけ処方に頼らず、時間を取って話を聞き、おそらくは認知行動療法によって改善を図る方針だった。今ではそれは見上げたものだと思うが、当時は手っ取り早さを求めていたので、少し不満だった。発達障害の症状のなかでも私が困っていたのは生活リズムが定まらないことで、医師はロゼレムという薬を出してくれたが、それは一般的な睡眠薬とは違いかなり緩やかなもので、私にはあまり効果がなかった。それで何度か通って別のクリニックに行くことにした。

今度の医者は、知能検査の結果を見せただけで「バリバリだねえ」と言ってすぐにコンサータとゾルピデム(睡眠薬)をくれた。コンサータはADHDの適応がある薬で、端的に言うと覚醒剤である。コンサータと同じメチルフェニデートを主成分としたリタリンという薬は、2005年にその依存症となった患者の飛び降り自殺という悲劇を引き起こし、騒動となった。コンサータは徐放剤といって、成分を時間をかけて少しずつ放出することでキマりすぎない仕組みになっているが、それでもなかなかヘビーな薬で、今ではリタリンと同様患者登録をしないと処方できないようになっている。

コンサータはたしかに集中力を高める効果がある薬だと感じたが、副作用も大きく、私は食欲がなくなり、喉がとても渇き、そして眠れなくなった。ただでさえ寝つきの悪さに困っているのに、そんな薬は連用できず、医師と相談して本当に集中しなければならないような状況でのみ頓服のような形で服用することとした。安い薬でもなく、毎日服用すると1カ月で4,000円くらいだったかと思う。学生の私には小さい額ではなかった。ゾルピデムはそれに比べるとずっと危険性の少ない薬だが、数年間服用していたら幻覚の症状が出たり、眠る前の記憶がなくなったりしたので、別の薬に変えてもらい、そちらは今でも飲んでいる。

しかし精神科に通い始めたからと言ってすぐに大学に行けるようになるわけでもなく、むしろコンサータをキメて無理矢理起き続けてレポートを徹夜で書くといった健全でない振る舞いが可能になっただけだった。それはせいぜい一時しのぎに過ぎない。それでも一時しのぎができれば助かる局面というのは人生に多いもので、薬は助けにならないわけではないが、当たり前ながら全面的な解決ではない、という認識をその後の数年間で獲得した。生活リズムも私の場合は睡眠薬で修正するのは困難だし、ないよりはマシ、というのが近い。

そのように考えると、最初に受診した医師の方針も立派だと今では思うわけである。患者の話をいちいち聞いていては1日に多くは診られない。かと言って2番目の医師が良くないかと言うと、そうでもなく、患者によって求めているものが違う。

受診後の学生生活

その後も私は単位を落とし続け、大学を辞めてもなんとか食べていけるよう、デザインやプログラミングの心得を身につけ、関連する企業でアルバイトをしたりした。親に学費の負担をかけずに進路を模索する期間を延ばすため、医者に診断書を出してもらい(「発達障害による抑うつ症状」とそこには書いてあった)半期の休学を2回した。

今時の大学は面倒見が良いので、成績通知書を保証人(おおむね保護者である)のもとに郵送してくるのだが、私は実家に住んでいたのですべて自分でポストから出して捨てていた。留年が確定した学期の通知書は友人に車を出してもらって河川敷で燃やした。そうでもしないとやってられなかったのが半分、他人事のように退廃を楽しんでいたのが半分である。大学時代は離人感が激しかった。

両親は高卒と中卒で、大学について何も知らないも同然だし、知っていても昔の緩い大学の知識なので、私の暮らしぶりについて特に疑問は抱いていなかった。休学は学費に関わるので親に言わないわけにもいかず、ただ面倒は避けたいので「プログラミングの技術を磨きたいので休学する」とか言っておいた。

コロナ禍の精神的な不調

私のいた学部は単位をまったく取れなくても進級する(留年すると5年生になれる)ので名目としては4年生になった。その頃、新型コロナウイルスの流行が日本でも始まった。そこから就職を決意するまでの1年半くらいは、今思うとあまり精神的に余裕がなかった。私は実家の居心地がそこまでよくなかったので、外出が制限されるのはかなりきつかった、と当時は特に思っていなかったのだが、それが後付けの原因としてはもっともらしく思える。また、今までここぞというときにガーっとやってなんとかするという(ADHDにはありがちな)行いばかりしていて、それでわりとなんとかなってきたという認識だったのだが、年齢を重ねて生じる問題が複雑になるにつれて、それが通用しないことが多くなってきた。たとえば大学の単位は短期集中で50単位とか取って卒業要件を満たすというわけにはいかない。

精神的な不調と言っても傍目にはせいぜい、身なりが悪くなったという程度の変化しか感じられなかったかもしれないし(そしていまでも疲れてくると身なりがどんどん乱雑になるのだが)、自分でも追い詰められているという自覚はあまりなかったのだが、大学はもう出られそうにないし、自分の仕事もうまくいかないし、何よりただでさえ苦手な掃除が尚更難しくなった。そういうわけで、しばらくの間足の踏み場もない実家の自室で悶々と過ごしていた。

そのような状況では、障害者手帳を取得するために、改めて医者に困っていることを整理して伝え、それによって手帳の取得条件を満たすことを確認し、診断書に金を支払い、役所にそれを持って行く、というような一連の手続きはできないし、またその発想もない。近視眼的になるのが普通だと思う。目の前の必要をこなしていくことで精一杯である。

復調と就職

2021年の春、コロナ禍の始まりから1年経った頃にフリーランス稼業をセーブしてアルバイトを始めた。いつどのように働いても良いがすべての責任が自分に降りかかり、来月の生活費は自分の働きぶりのみに依存しているというような状況をやめて、ある程度の制限のかわりに(といっても、ありがたいことに本当に緩い職場・仕事内容だったのだが)時給によって収入の見込みが計算できるようになった。

社会復帰という言葉は好きではなく、どのような状況でも(山中で狩りでもして暮らしていない限りは)社会を構成していることに変わりないので、復帰も何もと思うが、私のような人間には職場という強制力はあった方が良いのだなと感じた。大学は強制力がほとんど働かないので何もできない。

それからは少しずつ復調し始め(あるいは復調したから働けるようになったのかわからないが)、半年経ったあたりでもう就職して大学をやめてしまおうと決意を固めて働き口を探し始めた。そのタイミングで伸ばし続けていた髪を切り、髭も剃ったし、やがて運良く今の会社に拾ってもらうことが決まった。就職先が決まったあとで両親にも手伝ってもらって部屋を片付けた。そのようにして苦しい状況から抜け出した。

現在の生活

いざ働いてみると正社員というのは本当に良いもので、適切な職場を選び、とりあえずクビにならない程度に働いていれば、感覚としては自動的に給料が振り込まれるようなものである。これはとても生きやすい。同時に職場で何かあるとさながら地獄だろうが、今のところ辞めたくなるほど困ったことは起きていない。周囲にこいつ辞めてくれねえかなと思われるほど困ったことを起こしてもいないはずである。

また収入が安定するのと、近くないと会社に行けないので実家を出ることにした。それも精神衛生には良いことだった。生活能力のなさには自信があるのだが、定期的に人を呼ぶことで部屋の清潔さを一定に保っている。一度極端な状況に陥ったので、またあそこに戻らないようにという意識もそれなりに働いている。

鬱でどうにも動けないような状況ならいざ知らず、私は基本的には、報酬系やら実行機能やらが弱いために動けないのであって、逆に言えば弱い報酬系であってもそれが成し遂げられないときの困難を十分に認識できていれば動けると考えている。料理は外食中心だが、気力があるときだけ自炊している。洗濯はすべてコインランドリーとクリーニング。下着や靴下を大量に揃えることで着る服がないという状況に陥りにくくしている。

生活リズムについてはまだ試行錯誤を続けているのだが、最近はメラトニンのサプリメントと睡眠薬を併用している。完璧ではないが改善はしたという印象を持っている。幸い在宅勤務が中心なので、やることさえやれば昼寝していても問題はない(ときもある)。

障害者手帳を取得するまで

手帳の取得を検討する

そのように発達障害でもなんとかやっていく方法を考え続けていて、今のところ仕事と生活という面では大きな破局はないのだが、いっぱいのコップに水を一滴ずつ注いでいるようなもので、いつあふれ出してもおかしくないという意識がある。いつ会社を辞めざるを得ないような状況にならないとも限らない。障害者手帳を持っていれば、失業保険の受給にあたり「就職困難者」として給付期間が伸びたり条件が緩和されたりといった利点がある。再就職においても障害者雇用も視野に入る。

そういう現実的な、そして未来のことを考えられるのは、先行きがある程度想定できるからで、大学でふらふらしていた頃は先行きが抽象的にしか想像できないので具体的なことは検討できなかった。実際にトラブルが起きてから解決を考えていた。それが起きてしまう前に、余裕のあるうちに、想定できることは対処しておく、ということが(できていないが)重要だという認識を持った。

他にも調べているうちにさまざまなメリットがあり、そしてデメリットらしいデメリットは特になさそうだったので、手帳を取得できるようなら取ってみようと思った。障害等級というものがあり、1級がもっとも重篤で、2級、3級と軽くなっていく。それぞれの基準については調べてもらった方が早いが、私は3級ならば取れるのではないかと判断した。

なにせ、3級の基準は「精神障害であって、日常生活若しくは社会生活が制限を受けるか、又は日常生活若しくは社会生活に制限を加えることを必要とする程度のもの」である。精神障害があって日常生活や社会生活に制限がないことなどあるのだろうか(もしそうであれば、その症状は「障害」にはならない)。もっと具体的な条件もあるが、並の精神疾患を抱えていればいずれにも当てはまらないということは、私には想像しにくい。

精神科で診断書をもらう

そういうわけでかかりつけの精神科の診察時に手帳を取りたい旨を申告した。医師にどのような困りごとを抱えているかすべて話しているわけではないので、それらを列挙した紙も持参した。まず最初に医師が尋ねたのは「なにで取るの? 発達障害?」で、そうだと答えると「3級しか取れないと思うよ」と言った。おそらく、2級以上が取れると障害年金の受給にも可能性が出てくる3など、便益が大きくなるので、そのような言い方をしたのだと思うが、3級で十分だったので問題なかった。

意外なことに医師は手帳の発行にあまり乗り気ではなく、「どのようなデメリットがありますか?」と尋ねたら「偏見がある」と言われたので、手帳を持っているかどうかは見せなければ判らないではないかとか、不要になったら更新をしなければいい4ではないかとか反駁した。それから、手帳を持っているか持っていないかにかかわらず、現に発達障害で困っていることに変わりなく、少しでもそれを補う便益が受けられるのであれば取得しておきたいと付け加えたら、「それはその通りだと思いますが……」と言って診断書の発行を約した。診断書は7,500円だった。これは相場より少し高いくらいかと思う。

手帳の発行自体は無料なので、かかる費用は診断書だけ。仮に手帳を持っているあいだに失業しなくても、国立美術館の展覧会(大抵無料になる)に数回行けばとんとんになるだろう。また、年末調整か確定申告で障害者控除を適用すれば住民税や所得税の還付があり、私の収入ではそれを1回やれば十分まかなえる。さらに手帳の診断書で同時に自立支援医療5も申請できるので、金銭的にはどうやってもペイする。

障害者手帳を申請する

診断書の発行には2週間ほど要するというので次回の診察時に受け取り、それを持って役所に申請をしたのは11月7日だった。東京都の場合、手帳はカードと紙が選べるのだが、紙だと財布に入らないのでカードを選択した。新宿区のウェブサイトには、手帳ができたとき通知するために自分の住所を書いた紙のはがきを持ってきてくれとあったので、そうしたのだが、実際は電話でも良いらしくはがきは不要だった。

書類を出した後、精神保健福祉士と面談があった。障害者手帳の申請に伴うものではなく、自立支援医療に関するものらしく、症状や現在の暮らしぶりなどについて尋ねられた。

障害者手帳を受け取る

2月6日の朝に留守電が入っていて、受け取れるようになったというのでその日に取りに行った。発行までにカードは2カ月半、紙は2カ月かかるという話だったが、2月6日に受け取ったのでほぼ3カ月かかったことになる。しかし有効期間は申請日が基準なのは不服。更新時も3カ月前からしか申請できないのだが、発行に3カ月かかっていては間に合うかどうか判らない。同時に申請した自立支援医療の受給者証はまだ発行されておらず、発行されたら郵送されるとのこと。しかし、そちらは申請書の控えを病院と薬局で見せれば1割負担になる。

受け取ってみると、カードであってもカバーがついていて、カバーをつけているとかさばるのだが、手帳を利用する際にはカードだけでなくカバーと、それに挟まれている「別冊」という紙を携帯しろと役所のウェブサイトには書かれている6ことが多い。それでは意味がないだろうと突っ込みたくなる。ただ、身体障害者手帳や愛の手帳の場合は別冊に記載事項があるようだが、精神障害者手帳はそうではなくただの備考欄のように思われるので、実際にはなくても平気かもしれない。あと、白黒印刷の顔写真は人相が悪かった。

都営交通無料券の発行

その日の夜、都営大江戸線の新宿駅の定期券窓口に行って都営交通無料券を発行してもらった。障害者手帳を持っていると都営地下鉄や都バスなど、東京都交通局の乗り物は無料になる。こちらも紙かPASMOか選べ、PASMOを選ぶ。発行は無料だがPASMOだと500円のデポジットはかかった。普段モバイルSuicaを利用しているので、モバイルPASMOにしたいのだがそれはできないよう。

窓口の人は「別冊」は特に確認している様子はなく、カードの裏面にある「住所変更等記載欄」にスタンプを押された。そのスペースに余裕があるうちは別冊は不要な気がする。帰り早速都バスに乗ったのだがいつもの癖でモバイルSuicaをタッチしてふつうに料金を支払った。それは諦めた。メトロに乗り継ぐことなども考えて1,000円だけチャージしておいたが、別日に都バスに乗ったらきちんと無料になっていてチャージからは差し引かれていなかった。

手帳を取って思ったこと

私は大変幸いなことに人間関係にはとても恵まれているのだが、類は友を呼ぶためか、周囲に精神的な不調を抱えている人が多い。そのなかには私に比べるとずっとつらそうな人が何人もいる。私が取れるのだから、彼らも適切な診断を受けて手順を踏めば、障害者手帳は取れる気がする。

取れたところで悩みが解決するわけでもないが、多少の利益はある。そして不利益はあまりない。だから取れるものなら取ってもいいと思うが、しかし、実際にはまさにそれを必要としている人は大抵、その手続きをする余裕がない。

これはあらゆる福祉制度に言えることだと思うけれど、私も7,500円の診断書をためらいなく(は言い過ぎだが)もらえる経済状況と、平日の昼間に何度か役所に行ける程度に時間と気力の余裕があるから申請できたわけで、一番きつかった時期には取れなかったし、そもそもそんなことを考えてもいなかった。それでもその時期に手帳について触れる機会があれば取得を考えたかもしれない。周囲の助けを得ながら申請をしたかもしれない。

最初はそういうことを考えてこれを書き始めたのだが、書いているうちに今までの病歴なども含めた長大な文章に仕上がってしまった。しかし、そのようなごく個人的な文章も誰かの役には立つかもしれない。少なくとも私の役には立つので、そのままとした。


  1. 私が受けた当時の検査の話で、いまでは変わっている点もあると思う。
  2. 父親とは元から折り合いが良いとは言えなかったが、養子を大学までやってくれたこと、そもそも養子を引き受ける覚悟をしたことなど、感謝している点はある。実家を出てからは距離があるので関係はむしろ改善している。悪い人間ではないのだが保守的、という印象を持っている。
  3. 障害者手帳の基準や取得審査と、障害年金の基準や受給審査とは別個のものである。障害者手帳の取得=障害年金の受給ではない。仮に2級や1級の手帳を持っていても年金を受給しているとは限らない。
  4. 精神障害者手帳は2年ごとの更新制。
  5. 精神科の通院と薬局での処方が3割負担から1割負担になる。面倒で申請していなかった。
  6. 東京都の場合「カード形式の手帳は、保険証や運転免許証と同じ大きさで、持ち運びがしやすくなっています。紙形式の手帳と同様、別冊及びカバーも配布されますので、各種サービスの申請の際は、併せて別冊をお持ちください。」とある。

2023年2月9日 木曜日

会社で、4月に入社する新卒となんか質疑応答をする会があり、参加する。1時間くらいで終わる。初々しいなと思うが、私も1年前は初々しかったのだろう、となるのが普通だと思うが、私は1年前も結構図太かったという確信がある。

終わった後同期に飲みに行きませんか? と言われて応じておく。それはそれとして資料を印刷して帰る。一旦帰ってまた会社の方に行っても負担にならない程度の距離。

夜、串カツ屋へ。サシになるかもというくらいだったが、誘っていたら同期が全員集まった。といっても元々数人しかいない。話はそれなりに盛り上がった。

新卒のうち一人が、猫をかぶっているけどちょっと何か隠し持っていそう、という見解が一致する。そういう人はとても好き。仕事のことが1日の多くを占めると書けることが少ない。

2023年2月4–8日

2月4日 土曜日

昼間に起きる。下北沢で意味もなくリングを買う。大学のサークルの同期がたまたま下北沢にいるストーリーを上げているのを見て、うけるので数年ぶりに会った。煙草を吸った。先方は大学時代よりなんかやさぐれていた。煙草一本分の時間は互いの近況を報告するのにちょうど良い。

DORAMAの店先にある100円棚を見ていたら川上未映子『ヘヴン』が入っていたので買う。そしたら20%引きの日だったらしく、税込88円だった。本の価値というのはいまひとつ経済的な合理性を離れている感じがする。

小田急で帰るのが無難なんだけど井の頭線に乗って渋谷へ。iPhoneのケースを新調する。買い物しすぎかな? と思ったけれど、ケースはここ1カ月くらい買い換えようと思っていたので、どうせいつか買うことになるなら今買った方がお得という論理で買った。どの道、そこまでの出費ではない。

クリアケースは黄ばむし、私は黄ばんだらすぐに変えるほどまめな人間ではないので、今度はシリコンにする。

2月5日 日曜日

東京の西郊にある、実家のある街へ向かう。京王線で行くのが無難なのだが、小田急とJRを乗り継いでいくことにする。途中登戸のドトールへ。ここは未だに煙草が吸える。

パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読み終わる。どんどん面白くなってきて、というと、エンターテインメント的なものを想像するかもしれないが、そういう感じではなくて、なんとなく離れがたいような感じで、それでドトールにいすぎてしまった。母親に、ごめん十分遅れる、とLINEする。

母親と、母方の祖母、それから伯父が集まる予定で、行ってみると妹も来ていた。伯父に会うのは五年ぶりくらいで、たぶん話すのは十年ぶりくらい。

私はどのような見地からもあまりまともな人間とは言いがたいのだが、そのまともでなさはこの一族の血なのだな、と思う。血は争えないとはよく言ったものだ。私は実の父親の顔を知らないが、母親と伯父も自分の父親の顔を知らない。そして伯父は、自分の顔を知らない子供を何人か持っている。そういう家系である。

この場にいない親族も含めて、皆があまり人聞きの良いとは言えないエピソードを持っている。そしてまた、皆が「いろいろあったけれども、今はとりあえずなんとか人並みに暮らしている」という状況に落ち着いている。それはとても恵まれたことだと思う。私も先のことは知らないが、幸い今のところそれに近い。

私は母方の人間で唯一大学に進学したので、少し毛色が違うところがあると見られているのだが、まあ大学をやめてしまったあたりに、十分そうした性向が受け継がれていると言えるだろう。

私とは父親が違う妹は、母方の親族にはほとんど会ったことがない。私もほとんどないが、一応一通り顔を合わせたことくらいはある(二十年近く前の話だが)。また私は幼い頃祖母に育てられたので親戚の話は結構聞いたものだが、妹は名前もぴんとこない人たちの話を聞かされて退屈そう。それでなくても中学生というのは、一番そういう話がどうでもいい、むしろ反発さえある時期だと思う。

帰り道、少し散歩したかったので笹塚で降りる。写真を撮りながら歩いているうちに気分が乗ってきたので、幡ヶ谷を経由して代々木上原まで歩いた。代々木上原ですごくいい古本屋に行き当たってしまったが、一冊しか買わずに済んだ。そこから小田急に乗って帰った。

夜、松本俊彦『誰がために医師はいる——クスリとヒトの現代論』を読み終わる。とても面白い。

2月6日 月曜日

朝起きると役所から留守電が入っていて、障害者手帳ができたので受け取りに来いとの由。たしか、11月の始めに申請したのでだいたい3カ月くらいかかったことになる。適当に仕事をして、昼休みに役所へ行く。結構春めいた陽気で、このままどこかへ行ってしまいたいなと思う。

障害者手帳については、いくらか思うところがあるので、別のところに書く。

受け取ってからついでに出社したら、ある社員から感情的な振る舞いをされて、それは正直八つ当たりとしか思えず、傷つくし腹が立つ。職場でそうした人に振り回されるのは本当に馬鹿らしい。なんで、いい年した大人の機嫌を取らないといけないのだろうか。

結構しばらくそういう振る舞いとは無縁の生活を送れていたのだけど、まあ、世の中にはそういう人もいますね。私もいろいろなことが足りていないので、他人の足りなさを糾弾したくないが、でも面倒だ。何も考えないように仕事を熱心にしたが、退勤してからいろいろと考えてしまい、眠れなくなる。恋人や友人に話を聞いてもらう。

2月7日 火曜日

少し眠って冷静にはなったが、冷静になったので、昨日の件と、別件も含めて上司の耳に入れておくことにした。私は人間ができていないので、自分が我慢すればよい話だから、などとは思わない。でも、昨日の件と別件との両方がなければ、告げ口はしなかった気がする。上司は、とりあえず話を聞いてくれる。別に大事にしたいわけではないので、さしあたりはそれで十分。

私は学生の頃、人に雇われずに小遣いを賄っていた時期があったのだが、夜、そのときにした仕事に関して顧客からトラブルが起きたと相談を受ける。結果として私には責任のない、全然別のことが原因とわかったのだが、今度はその原因に関して知見を求められる。それについては別途相談料をお支払いいただきたいところなのですが、と思うが、まあいいやと判る範囲でいくらか話す。

宮仕えは厄介だが、宮仕え以外も厄介だということを思い出したので、よかったと言える。どうせ厄介なら職掌と責任が分担されているだけ宮仕えの方がよいと今は考えている。

2月8日 水曜日

ご飯をUber Eatsで頼んでしまう程度に気力がなかったが、退勤して湯船に浸かったら元気になってきたので、日記を書く。指輪がさっそくどこかに行ったが、家にあるのは確かで、捨ててはないのでどこかにはある、という、いつも適用している論理のおかげで、特段ショックでもない。物をなくすことには長けている。

2022年2月3日 金曜日

今日は何もする気力がなく、少しだけ仕事をして、終わったらひたすら図書館で借りたリチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読んでいた。

これまでパワーズの小説を読んだことはなかったのだが、最近新刊が出て書店でよく平積みされているので気になり、デビュー作が図書館にあったので借りることにした。

河出から文庫で出ているらしいが、借りたのはみすず書房の単行本。二段組で400ページくらいあってなかなかボリュームがある。これは、なんというか、小説なのか? という気持ちで半分弱くらい読んだ。

私は本を半分くらい読んだ挙句投げ出す傾向があるので、この本も明日再び続きを読まなければしばらくは読まないと思う。どれも半分まで読んでいるのだから面白くないことはないのだけど、なぜか知らないがよくそこで読みやめてしまう。

うーん、なんなんだこれは、という気持ちになる本。よくわからないがすごい気がする。しかし何を読まされているのだろう? ただ文章にしばしば挟まれる風刺や諧謔が面白いので読んでいられないことはない。でも、公立図書館がこの本を市民に無償で貸し出すことで、公共に対して一体いかなる利益があるのだろう、と思う。

仕事して読書して何も食べずにいたら、突然あり得ないくらいの空腹が襲ってきたので、空腹で動けなくなる前にサンサールに行ってダルバートを持ち帰る。数ヶ月に一回食べたくなる。

ちょっと疲れているのでこの土日はあまり動かずひたすら本でも読んでいようと思うが、少しくらいは外に出たほうが、実は回復が早い。