ただそうである日々

最近はただそうである日々を送っている。寒くなったなと思って上着を着る。白い目で見られない程度に仕事。暇だなと思えばTwitterを開くか、娯楽としての本を読むか、散歩でもするか、お茶するか。たわむれにTinderで会った人とそういうことになる。人を家に上げるのでなんとか掃除をする。着る服がないので洗濯をする。給料日にいろいろと支払い、残ったお金を日割りで使う。ただそうである日々が積み重なり、ただそうである人生になる。何かに熱意を持つでもなく、特段の野心もない。享楽的といえばそうかもしれないが、それらもまたつましい楽しみにすぎない。

この生活に不満らしい不満はない。恵まれていると思う。まったく興味がないわけでもなく耐えがたいほどつらくはない仕事をして、贅沢はできないにしろ生活が苦しいほどではない給料をもらい、自分だけのためにあるアパートの部屋を借りて住んでいる。それで十分じゃないか。発達障害の私には尚更貴重なことだ。

でもなんだか張り合いがない。この生活を繰り返すだけで、五年や十年は簡単に経ってしまうだろうという気がする。それは安穏で素晴らしいことなんだろうか。そうとは言い切れない自分がいる。何も先行きの見えなかった時代には、たしかに今のような暮らしを求めていたはずなのに。でも、それにしたって、心がときめく何かはどこにあるのか? 内に秘めた野心はどこへ行ったのか?

だから人は結婚して、子供を産み、先の見える(気がする)自分だけの人生を生きるのをやめるのかもしれない。しかしその責任をまっとうできる気もしない。しなかったから、長く交際していた人と結婚せずに別れたのだし。

とはいえどうせ、私のような人間には、残念ながらいずれとんでもない波瀾が待ち受けている、とも思う。そうでなくても、不況や天災や戦争や病によってこのような生活はいつでも容易に破壊されうるのだから、ただそうである日々を、束の間の平穏として味わっておくべきなのかもしれない。きっとそうなんだろう。