2022年1月5日 水曜日

うまく生活リズムを戻すことができて10時くらいに起きた。

アルバイトが14時からだったのでしばらく暇がある。赤と青と緑の三色ボールペンで書き込みしながら本を読むといいですよというのを年始に読んで、試すために買いに行く。(齋藤孝『三色ボールペン情報活用術』

立川の書店の文具コーナーで一番安いものを買った。赤と青と緑があるペンは、黒もある四色のものがほとんどである。著者はそれが気に食わず、以前関連する本を出したときは、赤・青・緑の三色ボールペンをつくって同封したらしい。

 ここに私の提唱する黒のない赤・青・緑の三色ボールペンと、黒のある四色ボールペンとがあったとしよう。両者が同じ値段だったとして、どちらかを選べというと、間違いなくほぼ全員が四色のほうを取る。残念なことに、単純に三色よりは四色のほうが得だと考えてしまう。

 たしかに一見黒があったほうが便利なようだ。いざというときには黒が使えるという安心感があるからだ。この場合のいざというときとは、判断に困ったときである。

「青にしたらいいのか、緑にしたらいいのかわからない。とりあえず黒を使っておくか」

 なまじ黒があるばかりに、そんな保険になってしまう。迷ったら黒にすればいいと思って安心してしまうと、判断力が鈍る。黒を使うという行為は、ここで三色に決めるんだという強い意志を弱めさせるのだ。

(前掲書)

とにかく著者は黒が嫌いらしく、黒い文字で記された本や資料に黒で書き込みをしても仕方ないとか、黒は判断停止の色だとか、私は書類の記入や署名もすべて青インクでするとか言う。

そんな著者の意見を無視して、黒も入っている四色のボールペンを買った。そもそも教科書や参考書を除いて、本に書き込みをめったにしてこなかったので、するとしたら著者のやり方を試すためだから、黒はどの道使わないはずである。

著者のお望みの三色ボールペンはいまでは、本体とレフィルを好きに組み合わせるタイプの製品で簡単に用意できるが、その方が高くつく。筆者のやり方が自分に合うかわからないので、とりあえずこれでいい。


目的を果たしたところでラーメンを食べる。昨日もラーメンを食べたのだが、朝ラーメンショップ(という名のチェーン)に関する記事を読んで、何かしらのラーメンが食べたくなってしまったので。天下一品と二郎系で迷ったすえ後者へ。二郎系に良い思い出がなく、あまり好きでなかったのだが友人に二郎系が好きな者が何人かいて、最近連れて行かれていたらだんだん食べられるようになってきた。これは退化だと思う。

それから駅前にある喫茶店へ。コーラ300円。氷入りのプラコップと缶のコーラがそのまま出てくる、セルフサービスの粗雑な喫茶店。ゆっくりする場所ではないが気楽さがちょうどよくたまに行く。当然煙草が吸える。店主は客の応対をしていなければパズドラをしている。

二階堂奥歯『八本脚の蝶』を読み進めている途中、文章とは関係なく、涙が出そうになる。煙草を吸い、飲み物を飲みながら、暖かい場所で本が読めるということが最高に幸せで。ほかに望むことなどあまりないかもしれない。実のところ、コーヒーと煙草と本に出せる金があり、またそれを消費する時間があるためには結構多くの条件を満たさなければならないので、謙虚な望みではない。

児童文学を読んでいたころ、そこに出てくるのは女の子だった。大人の本を読み始めた9歳頃、私は「少女」というものに出会った。

「少女」は女の子とははっきり言って関係がない。

それはすぐにわかった。

それはとても抽象的な存在だ。女の子や人間よりは妖精に近い。ただ、女の子と同じ姿形をしているのでとても間違われやすい。

「少女」は素敵なものだ。それは純粋で綺麗で観念的だ。

でも当然気付く、「少女」はすぐに大人の男の人に利用されるのだ。

それは無垢で悪魔で天使でいたずらで非日常で無邪気で神秘的で繊細で元気で優しくて残酷で甘えん坊でわがままで弱くて強くて無口でおしゃべりで白痴で悩みがなくて憂いに沈んで無表情で明るくておてんばで物静かでこわがりでなにもこわくなくて何も知らなくて何でも受け入れてくれて潔癖で閉鎖的な性質を持っている。

だから、いつでも一番都合のいい性質が選び取られて、男の人を気持ちよくするために利用される。

そして、どうやら、男の人たち(私が知っていた大人の男の人とは、つまりみんな本を書いた人のこと)は「少女」と女の子の区別がつかないらしいのだ。

(中略)

私は「少女」ごっこをする女の子になった。

(中略)

その内私は女になった。女の場合はもっとすごい。

女の子と「少女」よりもっともっと混同されているのだ。

出版物や社会組織を成り立たせている言説に出てくる「女」はどうやら大抵女の子の成長後でなくて「少女」の成長後のことらしい。文学に出てくるのも、哲学にでてくるのも。

私は「女」ごっこをする女になった。

「女」の仮装をする女になった。

「女」は「少女」程素敵ではないのだが、やはり高度に抽象的な美しい概念だ。

そしてなにより、「少女」でなくても女の子はなんとか上手くやっていけるかもしれないが、大抵「女」じゃないと女は上手くやっていけないのだ。

能力(仕事、学力、趣味、なんでも)が高い女がいても、「女」度が低いと減点される。

「女」度が高くても、能力が低ければとてもよく利用される。

両方ちゃんとできてやっと一人前だ。

二階堂奥歯『八本脚の蝶』2002年10月8日)

引用部に書かれていることは正しく、それゆえに絶望的だ。特に後半部において。

私は、自認としても他者からの認識としても男だが、男は何をしていても、あるいは何もしなくても「男」だ。女性が「女」になるための努力を絶えず要求される一方で、男にはそれは要求されていない。女を捨てていると誰かが評しても、男を捨てていると評されることはない。それがどれほど恵まれていることなのか、私はきっと実感できないのだろう。

『八本脚の蝶』は、インターネットでも読める(というか、それが本になった)のでよければ読んでみてください。


帰宅して、アルバイトをする。年末、差し込みで入った業務の対応をしていたため、それ以前にやっていたことを全然忘れてしまったがなんとかなった。ついでに、今月から昇給するという。わりとゆるゆると働いているのにありがたい話である。

いままでいくつもアルバイトをしてきたが、三ヶ月続けられるものはたいてい上司に評価され、給料も上がり、そのまま比較的長く勤められた。そうでないものは、採用にかかるコストを考えると大変申し訳ないが、初日にやめてしまったこともある。仕事の種類というよりは、職場や人の雰囲気によるところが大きく、特にほかの人がなにを考えているかよくわからない職場は耐えられない。

四月には正規雇用の職に就くわけだが、それがどちらに転ぶのかなと思っている。不安に思っているわけでもなく、単にどっちだろうな、というくらいの気構えでいる。

まだ七時半だが、くしゃみが出て飲んだ風邪薬のためかやけに眠い。