2022年1月3日 月曜日 本棚の整理

生活リズムがマジョリティと大幅に異なるとき、日記に日付を伴わせて書くのは難しい。今がまさにそうで、17時頃に起床した。これを書いているのは4日の朝4時半。でも日記の日付など便宜上の記号に過ぎないので、気にせずに書く。

日が暮れたあとに目覚めて、ああどうしようもありませんねと思ったのち、2時間半ほど布団のなかで本をつまみ読んだりはてなブックマークホッテントリを巡回したりして無為に過ごす。19時半頃に夕飯。珍しく母親が料理をつくっていた。雑煮と、豚肉とねぎの炒め物。雑煮のほうれん草がおいしく、なんだか歳をとった気がする。

弟は友達の家に遊びに行っていてそのまま泊まるらしく、また父はどこかへ飲みに行っているらしく、母と妹しかいなかった。父がリビングにおらず、かつほかの人が揃っているとき(月に一度くらいしかない)は、わりと長話をすることが多い。今日もそうだった。

今夜までお互い家を空けがちだったため、年が明けてからはじめて顔を合わせたので、年末年始何をしていたかをはじめに、家の電気代がすごい話、出産のつらさの話、飼っている犬が最近よくこけている話、母と妹が申し込んだとかいうTWICEのライブの話、母と俺と弟のお金の使い方が下手な話などを続けざまにした。

母は、女に生まれて本当によかったと思っているらしい。彼女は、彼女の表現を借りると、「女の武器」を完全に活用して生き延びてきた人で、またそれを武器として使うことにためらいがないので、さもありなんという感じではある。自分の周りの女性は、女性であるがゆえのつらさや苦しみを吐露する人が多いし、自分から見てもそれは正当であるように思われるので、いろんな人生があるなあと思う。


Twitterのスペースで友人と雑談したのち、本棚の整理をした。年末に部屋を片付けたが本棚はどこから手をつけていいかわからず、本を適当に床に積んでみたりして昨年来うめいていた。あまりいろいろなことを考えず、まず多く持っている作家の本と漫画の場所を決め、大きい判型の技術書や実用書や図録を本棚の上に並べ、それから段の高さなどを考慮しつつ気分で大雑把に分けたらなんとかなった。

気分というのは読書の気分で、たとえば「何か考える糸口を求めて読む本」とか「頭を使いたくないときに読む本」といった分類をした。それから言葉、社会、都市など関心のあるトピック。

三年ほど前に本棚に手を入れたときは、整頓を重視して判型とレーベルで分けて、見た目にはきれいだが、穂村弘のエッセイが小学館文庫と集英社文庫河出文庫と文春文庫と光文社文庫にあるみたいな状態で全然便利ではなかった。書店かと思った。

家は書店ではないのでそんなことをする必要はないのだし、そもそも本棚だけきれいでも部屋全体は居住者の性格を反映して雑然としており、またそういう本棚を使っているとよく読む本を床に積んでおくなどの行為が加速するのでさらに雑然とし、良いことが何もない。今回はそれなりにしっくりくる本棚になっている。

本をめったに捨てないで暮らしてきたのだが、数十冊程度処分することにした。高校までで読んだ小説のうちいくらかは捨てていいかと思えた。かつて確かに面白く読んだはずの作家もいまでは、失礼ながらその名前を口にするのも恥ずかしい人もいる。

それは読書の趣味が洗練されたということかもしれないが、どちらかというとやれ柄谷行人だ、やれ澁澤龍彦だと著者をポケモンみたく戦わせているようなTwitterのタイムラインに、良くも悪くも影響された部分が大きいと感じる。いけ! マルキ・ド・サド! 悪徳の栄えだ!

柄谷行人澁澤龍彦マルキ・ド・サドも、一冊読み通したことすらなく恥ずかしいし、ポケモンをプレイしたこともなく、それは恥ずかしいと思っていないが、なんだか気がついたら変な場所に来てしまった。ポケモンをプレイしていないことが、柄谷行人を読んでいないことより、恥ずかしいとは言わないまでも支障が出る環境が、世の中の多くを占めているはずなのだが。

柄谷行人ポケモンの両方を知っている人が素敵だと思うが、どちらも知らない。